今回紹介する江戸城は東京のど真ん中にあったお城。
「東京にお城なんてあったの」と思う方もいると思いますが、天皇陛下の宮殿がある皇居周辺。
あれがもともと江戸城だったところです。
江戸城を築いたのは徳川家康。
しかも武田信玄に打ち負かされたような若い時ではなく、江戸幕府の将軍としてとてつもない力を手に入れた時代での築城。
そのため江戸城は他の大名の城とは比較にならないほど巨大な城なんですね。
例えば城のシンボルともなる天守。有名な姫路城の天守の高さは31.5mですが江戸城天守はなんと44.8m(徳川家光による寛永天守)。
約1.5倍もの大きさがあったんですね。
またとんでもない防御力も持ち合わせていました。たとえば入口に設けられた五連続桝形。
桝形というのは門と門の間に小さな空間をつくり、ここに敵を閉じ込め殲滅する防御施設。
他の多くの城にもあるのですが(時代による)、家康が築いた江戸城にはそれがなんと5個も連続して設けられていたと言われています。
そんな城なんてほかに聞いたことがありませんね(熊本城もそう?)。
この5連続桝形は通るのが大変すぎて、のちに廃止されてしまうんですね(御殿を拡げるためとも言われています)。
当時の人も「さすがにやりすぎた」と思ったのでしょうか。
このように、江戸城は江戸幕府の将軍家、徳川家の居城として、日本一の規模と防御力を持った城でした。
ところで、ここでちょっと疑問が。それは「お城って山の上になかったっけ?」ということ。
そういえば姫路城も彦根城も小高い山の上にありますよね。岐阜城なんて標高300mを超えるような山に築かれていますし・・。
お城の役割として大事なのは敵からの攻撃を防ぐということ。
戦いでは高い場所にいたほうが有利。だからお城は山の上にあることが多いのです。
ところが江戸城ってそんなに高い場所にあるように思えませんね。
だいたい東京のど真ん中に山なんてあるわけないし。
ですがよく見てみると江戸城も山の上に築かれているんです。
正確に言うと山ではありませんが、徳川家康は戦いで高低差を考えたときちゃんと有利となる場所を選んでいたんですね。
それを示すのが地形図。
これを見ると家康がどうしてこの場所に江戸城を築いたのか、その理由がよくわかるのです。
ということでここからは地図を使って江戸城を見てみましょう。
まずは江戸城の様子を簡単に確認してみましょう。
城の正面入口は東の東京駅のある側で、大手門がありました。
29.6という表記のあるところが天守が建っていた場所。
このあたりが本丸で、将軍が政治を執り行う御殿や大奥がありました。
東に向かって細長く二ノ丸、三の丸が続き、南の皇居外苑は西の丸下と呼ばれていました。
このあたりが日本の政治を取り仕切る江戸幕府の中枢部ですね。
西の丸には将軍を退いた大御所や次期将軍が使う御殿がありました。
徳川家のプライベートスペースみたいな感じです。
明治天皇が江戸城に入った時本丸御殿は失われており、そのまま西の丸の御殿に入ったことから今日まで皇居として使われているそうです。
吹上にははじめ、大名屋敷があったのですが後に梅林や田畑を備えた庭園に変えられました。
当時の将軍様は自由に外出できなかったと思われますので、自然に触れることができる貴重な空間だったのでしょう。
日本武道館があるあたりが北の丸。
ここには徳川家により近い大名の屋敷が設けられていました。現在の地図で見てみてもかなり広い空間が江戸城だったんですね。
堀の跡がほぼそのまま残っているのがうれしいですね。
ところで、パッと見て東と西で城の様子が違うことがわかるでしょうか。本丸から皇居外苑があるあたり東側の曲輪のラインは直線的。
それに対し、西側の吹上や北の丸のラインははぐにゃぐにゃ曲がっています。
これはいったいどういうことでしょうか。地形図を合わせてみましょう。
こうしてみると江戸城内部はかなりデコボコしています。
全体的に見ると西側が高く東側が低い。
しかもかなりその差がはっきりしているようです。
実は江戸城は西側から続く武蔵野台地の上に築かれています。
台地の高さは20mを超えるというので、7階建てマンションの屋上くらいあるんですね。
そのいちばん先端に本丸を置き、東の低い場所に二の丸・三ノ丸を配置。
石垣と水堀で囲みます。
西側は守りが弱いので谷間を利用して巨大な堀を設け、台地と城を断ち切ります。
このあたりが西の丸、吹上、北の丸です。
東側にある大手門では水堀との高低差はあまりないですが、西側の半蔵門では圧巻の巨大土塁が。
江戸城は低地である東側と台地上の西側では別の顔を持っているんですね。
本丸から皇居外苑があるあたり東側の曲輪のラインが直線的なのは低地だから。
水堀と石垣による平城の造りです。
それに対し、西側のラインが曲がっているのは台地上の自然地形を利用したため。
こちらは山城(平山城)の造りになっているんですね。
一見大都会の平らな場所にある城に見えますが、家康はそのあたりの地形をよく見て城を築いていたのです。
もともとこの場所には太田道灌が築いた江戸城がありました。
その様子を伝える文書によると道灌の江戸城は高い崖に囲まれた堅固な造りで、そこからは松原と入り江を行き交う船を眺めることができ、さらに富士山も望めるという抜群の眺望だったようです。
ちなみに道灌の江戸城があったのは現在の本丸部分だ!と言われています。
松原と入り江を行き交う船が見えるというのは本丸の東側の低地のことで、当時の江戸は現在では考えられないくらい近くまで海が迫っていました。
現在の日比谷は入江で、江戸はぽつぽつ港や漁村が並ぶド田舎だったようです。
徳川家康がやってきたときの江戸は道灌時代とあまり変わっておらず、そのド田舎に大大名徳川家の拠点を造ることになるんですね。
このときの江戸の城と街づくりの基本的な考えのひとつが「台地の土で低地を埋める」というもの。
家康は神田山という山を削ってこの土を低地の埋め立てに使います。
ちなみに神田山があったと言われるのはお茶の水駅の南あたり。
このあたりの道路が曲がっているのはその痕跡なのかもしれません。
もちろん先ほど紹介した半蔵門あたりの堀から出た土も埋め立てに使われたのでしょう。
こうして大量の土砂を埋め立てることによって江戸城の東側に広く平らな土地が出来上がり、そこに現在の東京の元となる街が出来上がっていくのです。
さらに茶の水から市ヶ谷、四谷と続く外堀が造られ、三代将軍家光の頃には外郭の総延長16キロという桁外れの大きさの城が出来上がります。
この堀の跡は現在でも見られ、ここを通る駅が低い場所にあるのはその名残ですね。
では最後に江戸城を造るためにどうしてこんなに大規模な工事ができたのか考えてみましょう。
その秘密は天下普請にあります。天下普請とは全国の大名が江戸幕府の命令によって城造りを手伝うということ。
資材や人員にかかる費用を各大名が負担し工事に当たるのです。
なぜ自腹で他人の城造りをしなきゃならないのか。
さぞかし大名たちは不満だったのだろうと思うのですが、意外と皆さん張り切って工事に参加したようです。
徳川将軍家によく思われたいという気持ちでしょうね。
家康が豊臣秀吉の命令によって江戸に入ったのは1590年。
しかしそのころは秀吉の家臣として働かなければならず、工事なんてろくに進めることはできませんでした。
家康は江戸城の改修より街づくりを優先させたと伝わります。
その後江戸に幕府を開き将軍家の城造りとして天下普請の工事が始められるのは1603年頃のこと。
家康は江戸城の本格的築城まで10年以上待っていたんですね。
その気持ちが爆発したのでしょうか・・。
その後競い合うように当時の最高技術を使ってとてつもなく堅固な城が出来上がります。
五層天守のほか小さな城の天守に匹敵する三重櫓が8基も立ち並ぶ、史上最大の城郭が出現していったのです。
やがて江戸は人口100万人を超える超巨大都市となるのですが、これはロンドン 86万人、パリ 54万人より多く、当時世界一だったかもしれないと言われています。
その始まりとなった家康の江戸城に秘密がわかる地形図って面白いですね。