
「伊達政宗が生まれた城」といえば?
山形県米沢市の米沢城。多くの方がこのように考えたと思います。
米沢城は1548年に政宗の祖父にあたる晴宗が入ってから、その後40年以上伊達の本拠として使われてきました。現在上杉神社となっている米沢城跡には政宗誕生を示す碑があります。
しかし、これは間違いかもしれません。
というのも、伊達家が本拠として使っていた米沢城。実はここではない別の城だった・・という説があるのです。
にわかには信じられない話ですね。
ですが、理由を見てみると「確かにそうかもしれない」と思える内容。
そして、政宗が生まれた「米沢城」の場所も、ある程度特定されているようなのです。
伊達家の「米沢城」とはどのような城だったのでしょうか。今回はいろいろある説のうちのひとつを取り上げて紹介します。
伊達の本拠が米沢城とは別の場所にあった?理由とは
伊達家の米沢城は現在とは別の場所にあった?そういわれる理由について見てみましょう。
1 懸崖造りの物見台の存在

一つは伊達治家記録(だてじけきろく)の内容。
伊達治家記録は仙台藩の正史で、江戸時代から作成がはじまり、明治時代に完成したものです。
この中に「米沢城には懸崖造りの物見台があった」という記述があります。
懸崖造り(けんがいづくり)とは崖などに向かって建てられた建物のこと。京都の清水寺のような姿です。
ところが、現在の米沢城は平地に造られた城。
本丸の周囲はいくらか高い土塁で囲まれてはいますが、とてもそのような建物があったようには思えません。
2 米沢城の詰城の可能性

もう一つは防御面の話。
いつ隣国から攻めこまれるかもしれない戦国時代。まったくの平地に築かれた米沢城では不安があります。
こんなとき、たいてい近くに詰城(つめのしろ)が用意されていました。
詰城とは「戦闘目的で館の背後や近くの山上に築かれた城」で、武田家の要害山城 や朝倉家の一乗谷城などがそうですね。米沢城にも詰城があったとしてもおかしくありません。
そして、そちらが「米沢城」と呼ばれていた可能性もあるのです。
ということで、「伊達の米沢城」は、現在上杉神社のある米沢城からそう遠くない、山の上にあった・・と考えることができます。
そして、それに該当すると言われているのが今回紹介する「館山城」です。
「館山城」ってどのような城?

館山城は米沢市街から西へ4キロ。二つの川が合流する山の上にあります。
米沢市街地との距離もちょうど良く「米沢城の詰城」としての条件を満たしています。
会津につながる国道がすぐそばを走っており、当時も交通の要衝だったのでしょう。

館山城の跡にはいくつかの遺構があり、自由に見学することができます。
入り口には、さっそく伊達政宗公誕生の地という看板が建っています。
川を渡ったところが城内で、正面に現在も使われている水力発電所があります。
その先に進むととても広い駐車場。ここに車を停め、歩いて山の上を目指します。

ここはどうやら私有地のようなのですが、歓迎ぶりがすごいです。
登城口のそばには謎の小屋があり、資料や杖だけでなく飲み物も準備されています。
保存会の方が用意してくださっているようで、ありがたいですね。

館山城は東西方向に細長く伸びた山の上に、三つの曲輪をまっすぐ並べた造り。
西側は山が続いており、堀を設けて断ち切っています。
二曲輪と三曲輪の間にある巨大土塁、一曲輪入口にある桝形虎口が見どころですね。
一番東が水力発電所のあるところ。
米沢城にあったとされる懸崖造り(けんがいづくり)の物見台がいかにも建っていそうな場所です。
山の麓の広い空間には館があり、発掘調査では庭園の跡や器などが発見されています。
川を挟んだ東側にも館があり、周囲に町が広がっていました。
その規模は、現在の米沢市街地に達するほどで、かなり大きな城だったのですね。
現地でわかる「館山城は戦いのための城だった」

山の上までは徒歩5分ほど。道も整備されているのでそれほど大変ではありません。
登った先が一曲輪。発電所の上にあたり、これ以上先には進めなくなっています。
麓の館や川の向こうに広がる町、さらに現在の米沢城まで眺めることできそうです。
実はこの曲輪が館山城の中心でした(時代によって変わった可能性があります)。
城見学として、いきなりゴールではつまらないので、何も見ていないことにして一番西の「物見台」まで移動します。

城の一番端にやってきました。
物見台とよばれる場所が館山城で一番高いところ。
城に近づく敵兵や、川の様子を監視していたのでしょう。そしてその下にあるのが巨大空堀。ざっくりと山を断ち切ってあるのがわかります。

三曲輪と二曲輪の間の不思議な道。
これは水路で、発電所関係の施設です。
おそらくこの下には大分深い堀があったのでしょう。現代になってそこに水路を通し上に蓋をしてあるのです(素人の考察です)。

水路の隣にあるのが二曲輪の巨大土塁。もはや壁です。
堀って出た土のすべてをここに積み上げたのでしょうか。
当時はもっと鋭い姿をしていたことでしょう。
内側から見ても「なんだこれは!」と驚くレベルの大きさ。
堀の向こう側から超えることなんで絶対に不可能でしょう。
土塁の近くには道があって登ることができます。
草が生えているので下の様子はわかりませんが、丸見えだったらとても怖くて歩けないでしょう。
館山城が戦いのために造られたということがよくわかります。
館山は伊達輝宗の隠居城?政宗の想いとは・・
館山城はもともと伊達の家臣の城だったと言われています。

天正12年(1584)、政宗の父「伊達輝宗が館山城を整備したという記録が残っています。
輝宗は山の東に館を構えそこに住んだとのこと。
この時輝宗は政宗に家督を譲っており、隠居するための城だったと考えることができます。
輝宗の館の周囲には町が広がり、館山城の中心部は一時的に東の平地に移ったようです。
しかし翌年、輝宗は阿武隈川のほとりで命を落とします。
館山城は一時的に使われなくなったようですが、その後天正15年(1587)に政宗が改めて整備。
輝宗時代の平地の館と山の上の城を組み合わせた大きな城が完成します。
このあたりまでに、巨大土塁や堀切が整備されたのでしょう。
館山城が伊達家の重要な城であったことは間違いなさそうです。
実は政宗は、普請以外で何度か館山に足を運んでいます。
その目的は
- 川遊び
- 納涼
- ホトトギスの鳴き声を聞くため など。

ここは個人の想像話ですが、政宗にとって館山は心を落ち着けることができる場所だったのではないでしょうか。
そして政宗はこの地で亡き父輝宗との記憶を懐かしんでいたのかもしれません。
ただ、そうなると、当時政宗が館山城とは別の場所に住んでいた可能性が出てきます。
このように、館山城が「伊達の本拠米沢城」であったかどうかはいまのところわかりません。
今後の研究が進むのが楽しみですね。
上杉景勝も手を加えた?山上に残る痕跡

館山城の山上の曲輪。ちょっと異様な光景を見ることができます。
あたりを埋め尽くす小さな丸い石。ところどころ大きな石も見えます。
何かの建築物の跡のよう。まるで廃墟のようですね。
館山城一曲輪入口には石垣づくりの桝形虎口が設けられていました。
入って右に曲がる形。門によって通行が制限されていたのでしょう。
石垣の痕跡から見て、この桝形虎口は江戸時代初期に造られたものであると考えられています。
伊達政宗の時代より後ということですね。

この石垣を築いたのは、1598年に会津120万石の太守となった上杉景勝であると言われています。(上杉家の記録にはそのような内容は無い)。
当時、景勝は領内のあちこちの城を改修しています。
はじめに向羽黒山城、次いで神指城の新築。
米沢は上杉領の北を守る重要な地。
館山城にも手が加えられた理由はよくわかります。
景勝は政宗の館山城に、当時の最新技術であった石垣づくりの桝形を追加したのです。
これは新領地の整備であり、また対立が深まる徳川家康との戦いを意識したものでしょう。

ただ、景勝の石垣がどの様な姿だったのか、現地で見てもよくわかりません。
石垣が大きく崩れているからです。
小さな石は、石垣内部に詰められていたもの。
外側の石をはずしたことで中から飛び出てしまったのでしょう。
この小石はもっとあちこちに散らばっていて、発掘調査が行われた際にある程度移動されたと聞きました。
そのため、現在は遺構の様子がなんとなくわかるようになっていますが、奥の部分には現在でも道を塞ぐように石の山があります。

ただ根元にある大きな石を注意深く見てみると、桝形の様子がなんとなくわかります。
まっすぐ並んでいるのが石垣の端のライン。角の部分も見えます。
当時はこの上に、壁のように石垣がそびえていたのでしょう。
その上には柵や塀、もしかしたら櫓が並んでいたのかもしれません。
この石垣、なぜこのような姿をしているか。
それは人の手によって破壊されたからです。
関ヶ原の戦いで西軍についた上杉景勝は、戦後に徳川家康に臣従。
領地の大半を奪われ米沢に移ることになりました。
もはや戦いのための城を持つことは許されない。
館山城はその役割を終えただけでなく、二度と使うことができないように石垣までバラバラにされたのです。
この石垣は館山城が最も立派な姿をしていた時期の痕跡であり、また終わりの姿でもあるのです。
米沢を守る城として、もしかすると伊達家の本拠として使われてきたかもしれない館山城。
上杉の時代になってもその重要性は変わりませんでした。しかし、戦いの無い時代を迎え、その役割を失うのです。
政宗は仙台で「米沢の懸造り」を再現していた?

米沢を離れた伊達政宗が最後に本拠としたのは仙台。
人口100万を超える東北最大の都市を見下ろす山の上に仙台城は築かれています。
本丸には巨大な御殿が建てられていたのですが、その中に一つ、奇妙な建物がありました。
それは懸崖造りの御殿。政宗は、幻の米沢城にあった建物を、仙台で再現したのでしょうか。
廃城となった館山。山の麓の川には橋が架けられ、多くの人々が往来します。
後に、江戸に詰めていた米沢藩士(上杉家家臣)が故郷を懐かしみ、このような歌を詠んだと伝わります「米陽八景」。
「たてやまや あらきあらしの音たへて さはりなき世の さとのかよひ路」
館山はかつては戦乱の地だったのだが、穏やかな世では人が行き交う道になった・・ということ。
戦国から江戸へ、時代は大きく変わっていったのですね。