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上杉謙信が関東制覇を断念!臼井城と謎の軍師 11万回再生

千葉県佐倉市にある「臼井城」。
この城は現在公園として整備され見学できるようになっています。

小高い丘の上にあるので眺めがよく、遠く印旛沼(いんばぬま)も望むことができるんですね。
駐車場から城まですぐなので、是非登ってみてください。

たいして広くもなく建物も残っていない臼井城ですが、実は、歴史好きな方にはちょっと名を知られた城。
それは、戦国時代、関東地方の歴史を変えたともいわれる「臼井城の戦い」の舞台だからなのです。

この戦いを引き起こしたのは「軍神」とも呼ばれる上杉謙信。
なぜ軍神なのかというと謙信が率いる上杉軍はとても強く、あちこちで行われた戦いで常に勝ち続けていたからです。

有名な戦国ゲームでも謙信の戦闘力は常に100をキープ!
これは不動のNo1の位置づけです。

その謙信が15000人もの兵士を引き連れてこの小さな臼井城を攻撃する!といえば、戦わなくてもその結果はわかりそうですよね。

しかし臼井城は、僅か2000人の兵で絶対に勝てなそうなこの戦いに勝利し、謙信の軍を追い払ってしまうのです。

これには関東諸国の武士たちもビックリ!
この戦いに敗北した謙信は上野の国、今の群馬県まで退却し、関東平定の夢を断念したとも言われています。

どうして小さな臼井城の城兵たちは「軍神」とよばれた謙信の軍を撃退することができたのでしょうか。
その奇跡的な勝利には、一人の謎の軍師白井胤治(しらい たねはる)の存在がありました。

臼井城は標高25mほどの台地上にあります。
戦国時代はこの城のすぐ下まで印旛沼(いんばぬま)が迫っており、水に囲まれた城でした。

そのため臼井城をまわりから囲んで一斉に攻撃するというのは無理で、限られた方向からしかこの城に近づくことができません。

さらに臼井城の周りにはいくつもの砦が築かれており、それと連携して城を防御するという、なかなか簡単に攻略できない仕組みだったのです。

この臼井城に上杉謙信が攻め寄せたのは1566年のこと。謙信(輝虎)は、越後の国を本拠とする戦国大名なのですが、どうしてわざわざこんな遠くにある臼井城を攻撃したのか。

それはこの臼井城の城主とその主君が、小田原城を拠点に勢力を張る北条家の味方をしていたからです。

当時謙信と北条家はライバル関係にありました。
謙信は北条家を倒して関東を自分のものにしようという野望を持っていました。
そのため印旛沼の水運を利用できるこの臼井城を手に入れようと考えたのです。


謙信は戦いに強かったので、関東にいた多くの武士達がその味方となりました。
集まった兵力は15000人。
謙信はその兵たちを引き連れて、臼井城に進んできたのです。

臼井城の城主原胤貞(はら たねさだ)は、主君の千葉氏や小田原の北条氏に助けを求めますが、両氏とも他の場所での戦いに手こずっており、臼井城にはわずかな援軍しか送られてきませんでした。

このままでは絶対に上杉軍に負けてしまう。
困った城主は、城を守るには誰かの力を借りる以外ないと考え、たまたま城内にいた謎の軍師白井胤治(しらい たねはる)に、城の指揮権を譲ります。

どうにもならなくなったので丸投げしたということですね。

臼井城を託された白井胤治は謎の人物です。
出家して浄三(じょうさん)と号したということなので、この動画では白井入道と紹介します。
若いころから諸国を旅し、さまざまな兵法を学んだようです。

軍師というのはどのようにして相手と戦うかといった作戦を考える人。
三国志に登場する有名な軍師「諸葛亮孔明」は巧妙な作戦を立て敵を撃退するだけでなく、なんと風を操って敵陣を焼き尽くしてしまうなど、およそ普通の人間が持っていない力を発揮します。

白井入道は兵法だけでなく占術(せんじゅつ)も心得ていたようで、似たような力をもっていたのでしょう。

白井入道は臼井城にいた城兵を集めて言います。

「上杉軍は大軍だが、恐れることはない。敵陣の気は間もなく衰える。こちらには正しく律儀な気があるので、負けるのは上杉軍だ。」

これを聞いて、兵士たちの士気は一気に上がったと言われています。
臼井城の兵士がいい人たちばかりでよかったです。

さて上杉軍は順調に臼井城を包囲・攻撃し、誰もが思った通り数日後には城は落城寸前、中心部分を残すだけとなってしまいました。

もう臼井城には抵抗できる力は残っていないだろうと考えた上杉軍は、このまま一気に落城させてしまおうと突撃をかけます。

そのとき突如門が開き、城内の兵たちが猛然と反撃を開始します。
しかもその反撃は兵士を3つのグループに分けた計算された方法。
もちろんこれは軍師白井入道の作戦です。

先陣の第一グループは上杉軍に突撃をしかけ、不意を突かれた兵を攪乱します。
次いで第二グループは上杉軍の奥まで進み、陣を分断します。
そして第三グループの北条家からの援軍・松田康郷(まつだ やすさと)が赤備えの装備で現れ、崩れ始めた上杉兵を倒していきます。

松田康郷は自ら先頭を走って敵兵を斬り、樫の棒で馬上の敵を打ち倒し、素手で敵兵の首をねじ切るという猛攻を持って上杉軍の本陣まで迫ります。

臼井城の城兵による突然の攻撃に驚き浮足立った上杉軍は多くの死傷者を出し一旦攻撃を中止、軍を引きます。

上杉謙信は、きっと臼井城の兵は勢いに乗ってまた攻撃してくるだろうと考え、城の外で待ち構えまえることにしました。
ところが今度は臼井城の城兵は固く守ったまま出てきません。

謙信は「臼井城には白井入道という軍師がおり、これは入道の計略であろうからこのまま敵が動くのを待つべきだ」という進言を受けます。
しかし自分が思っているように事態が進まず、イライラした謙信は再び城への攻撃を命令します。

上杉軍は臼井城の外にあった柵を壊し堀を越え大手門まで攻め込みます。すると城の壁が突如崩れ、そこにいた多くの上杉兵は下敷きとなってしまいます。
軍師白井入道は、ここでも謙信が何を考えどのような攻撃をしかけてくるか予想し、上杉軍の攻撃に備えていたのです。
驚いた謙信はすぐ撤退命令を出しますが、「逃がさない」と城内から兵が出撃。逃げる上杉軍を追って攻撃します。

上杉軍は多くの死傷者を出し、臼井城攻撃を断念することになりました。

白井入道の采配によって戦いの形勢は逆転し、上杉軍ははるか上野国まで一気に撤退するのです。

臼井城で上杉軍は敗れたことを聞いた関東の武士たちは、上杉謙信に味方することをやめてしまいます。
これによって謙信の関東支配という夢は実現できなくなってしまうのです。

上杉軍の攻撃を白井入道の采配によって見事撃退した臼井城は、この戦いの後ずっと北条家に味方する城として活躍します。

この小さな城で起こった戦いが、関東の歴史を変えたのですね。

上杉軍を追い払った謎の軍師、白井入道がその後どうなったのかよくわかりません。

現在臼井城の跡には、敵兵の進入を防ぐための堀や土塁などが残っています。
城跡への道はちょっと狭いですが、よほど大きな車でなければ大丈夫です。無料駐車場もあるので安心です。

現在公園となっている臼井城は、本丸・二の丸という城の中心となる部分だけです。
じっくり見学してもそれほど時間はかからないので、近くに来たときは是非寄ってみてください。



公園の外側は谷のようになっているのですが、これは城を囲む堀の跡。
自然地形でなく、人が掘ったのですね。
高さも幅もなかなかあり、ここから城を攻めることは無理そうです。

二の丸は城内で2番目に大切な場所でした。
現在はだだっ広い芝の空間となっていますが、戦いのときにはたくさんの兵たちがここにいたのでしょう。
もしかすると白井入道が兵たちに「負けるのは上杉軍だ!」と呼びかけたのはここだったのかもしれません。

曲輪を区切るのは「空堀」という水のない堀ですが、水があってもなくても落ちたら怪我をするし、なかなか這い上がれないので、城を守るための重要なパーツです。

今見てみると全然深くありませんが、昔はもっと深く鋭い形をしていたのでしょう。

空堀の先の坂が城の中心部分本丸の入口です。
ここには土でできた橋があったようで、わざと通路を狭くして防御がしやすいようになっています。

橋の先は門で固められていたと思われ、城を守る側は左右にある高くなっている部分から弓などで敵兵を攻撃できたのですね。
白井入道と上杉謙信の戦いがここで行われたのかもしれないなんて考えるとドキドキしますね。

城の中心部、本丸からはまわりを見渡すことができます。
臼井城は水に囲まれた城。昔はこの崖の下まで沼とか湖のようになっていたのでしょう。

水に囲まれた城の良いところ。
一つは敵兵がそちらの方向から攻撃してくる心配がほぼないこと。
なので、城を守る方面を絞ることができます。

もう一つは物資を運ぶのが楽ということ。
自動車も電車もない戦国時代、重い荷物を馬などの背に乗せて陸路を運ぶのはなかなか大変な事でした。
でも船を使うことができればたくさんの荷物を一度にそして楽に運ぶことができました。

水に囲まれた臼井城は防御にすぐれているだけでなく、戦いが行われていない時期には物資輸送の拠点として重要な役割を果たしていたのだと思われます。
関東制覇を目指す上杉謙信が遠く離れたこの地にある城を手に入れたかった理由がなんとなくわかりますね。
そしてその野望を打ち砕いた白井入道が眺めたのと同じ景色がここにあるのです。

臼井城に行ってみましょう!