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【名古屋城】徳川家康がここを選んだ理由は?「清州」じゃダメ?すべては地形図を見るとわかります! 2.6万回再生

名古屋城は大都会名古屋の中心部に建つお城。
誰もが知る観光スポットです。

なんといっても有名なのが金の鯱。
天守の上でキラキラ輝き存在感は抜群。

片方の鯱だけで重さ40キロを超える金が使われているそうです。

美しい弧を描いた石垣の上に建つ大小二つの天守。
この天守は鉄骨鉄筋コンクリート製の現代の建築物なのですが、江戸時代そのままの姿をしているんですね。

空襲で焼けてしまったのですが、それ以前に撮影された写真などが沢山あったとのこと。
だから昔の名古屋城天守がどんな姿をしていたのか、詳しく知ることができたんですね。

実は名古屋城の天守は江戸時代(1612年)から昭和(空襲1945年)まで、300年以上もの間ずっとこの場所に建ち続けていました。
残っていれば世界遺産姫路城と肩を並べる貴重なモノになっていたでしょう。
当時の名古屋の人々も、さぞかし誇りに思っていたのでしょうね。

さて名古屋城を築いたのは徳川家康です(もともと那古野城があり織田信長が誕生したのは現在の名古屋城二ノ丸あたりと言われています)が、その築城にあたってちょっと不思議なことがあります。

それは清州城という別の城の存在。

清州城があったのは名古屋城の北西。現在の清須駅の南あたりということなので、それほど距離は離れていません。
若き織田信長が本拠としたことでも有名ですね。



信長の死後も濃尾平野の拠点として大きな町も広がっていました。

この清州城がそのまま使わていれば、現在の名古屋は清州を中心とした都市になっていたのかもしれません。
しかし、家康は清州を廃して名古屋にわざわざ城を築き、城下町もまるごと移転させたのです。

どうして家康はそんなことをしたのでしょうか。それは「清州にないものが名古屋にあったから・・」です。


名古屋城の様子を簡単に見てみます。

城は名古屋駅の東側にあります。県庁や市役所などが並んでおり、現在でも行政の中心となっている場所ですね。
中心部はその北側にあり、堀で囲まれているのがわかります。

真ん中の四角い部分が本丸。ここに天守と本丸御殿が再建されています。

本丸の周りには二の丸、西の丸、御深井丸(おふけまる)が配置されています。
普段は二の丸の御殿が使われており、本丸御殿は徳川家将軍のための宿泊施設だったようです。

復元された本丸御殿が目がくらむばかりの贅沢な造りとなっているのはそのためなんですね。
将軍が宿泊したのは江戸時代を通じて数回だけだったようです。

南から東にかけて広がるのが三の丸。
さらに外側には城下町までを囲む惣構えを造ることも計画されていたようです。

ところで南北の造りにちがいがあるのがわかるでしょうか。
それは堀。

北側の堀は水で満たされているのに、南のほうは空堀が多くなっています。これはいったいどういうことでしょうか。



名古屋城は周りと比べて高いところにあります。
台地の上のようです。

この高まりは三の丸のある南へとずっと続いていますね。
北側は城の先でストンと落ちてそこから先は低地となっているようです。

実は名古屋城は熱田台地と呼ばれる南北に細長く伸びる高台の先端に築かれているんですね。
南から近づいてみると高低差がほとんどない平城にみえますが、北側からは見上げるような高いところに築かれた城にみえるのです。

ちなみに名古屋城本丸付近の標高は約14mですが、浄心駅(じょうしん)付近は約3m、名古屋駅は約2m。
なんと北側西側とは10mもの高低差があるのです。

この台地の北側は湿地。こちらは幅の広い堀に水を引き入れて防御し、台地の上は深い空堀によって断ち切ります。守りの弱い南側には侍屋敷や城下町を配し、惣構えでこれを囲む。

名古屋城は特徴ある地形を上手に利用した城だったのです。
名古屋城の南北の堀が違うのは、この地形に理由があったんですね。

では気になる清州城はどうだったのでしょうか。

清州城は川の側にある低地にあったいわゆる平城です。
関ヶ原合戦の頃は福島正則が20万石の大名として入っており、決して小さな城ではありませんでした。

しかし家康は「平城である清州城にこれ以上手を加えても防御には不安が残る。
だったら名古屋に台地の高さを利用した新しい城を築いた方がいい。」と考えたようなのです。

ということで「清州にないが名古屋にあったもの。」それは高さ。
家康は清州城以上の防御力を持つ城を、この台地上に求めたのです。

家康は守りの固い名古屋城をいったいどのように使おうとしたのでしょうか。

諸大名に名古屋城の築城を命じたのは1610年のこと(家康が西国大名に築城の手伝いを命ずる)。
このころの情勢をすごく簡単に言うと「全国の大名は江戸幕府に従っているが豊臣秀頼の人気は高い」というもの。

もし大坂城にいる豊臣秀吉の子秀頼が「徳川家を倒そう!」と声を挙げたとき、どのくらいの大名たちが秀頼のもとに馳せ参じるのかわからないという状態です。

家康が恐れたのは秀頼を盟主とする大名たちが江戸に攻めてくること。
そのため大坂城を囲むように彦根城・丹波亀山城・篠山城など新しい城を次々に築いているんですね。
いわゆる「大坂城包囲網」です。

名古屋城が築かれたのも同じ目的。
包囲網がもうすぐ完成するという頃、最後の抑えとしての築城です。

当初家康は自ら駿府城で防ぐつもりでいたのですが、このころになるともっと前線で防御する考えに変わっていったようです。
名古屋城攻略に豊臣軍が手こずっている間に江戸と駿府から援軍を出し、これを撃退しようということなんですね。

名古屋城には豊臣の大軍を引き付け一定期間守り抜くという役割が求められました。
本丸の周りに四角い曲輪をいくつも並べ、各曲輪を細い土橋だけで繋げる独立状態にしています。
これは一部の曲輪が敵の手に渡っても両側から挟み撃ちできるようにする工夫と言われています。

また本丸の四隅には天守と櫓が建ちその間に多門櫓を巡らせています。
南と東の入口は、二つの門の間に敵を閉じ込め攻撃する桝形構造となっています。

そしてさらにその外側には入口を守る陣地として馬出が配置されています。

名古屋城は本丸だけでもしばらく戦える構造。
その間に援軍を派遣して敵を撃退するのです。

一見美しく優雅な城にも見えますが、名古屋城はいつでも戦える!実戦を想定した軍事要塞だったのです。

家康の心配をよそに豊臣軍が攻めてくることはありませんでした。
やがて家康は方広寺大仏殿の鐘名(しょうめい)問題を豊臣家にふっかけるなどして大坂城を攻撃していくのですが、このころには名古屋城はほぼ完成状態だったとのこと。

すべてが家康の計画どおり進んでいるように思えるのは私だけでしょうか‥。

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名古屋城付近の地形(国土地理院地形図に加筆作成しています)
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名古屋城の南北の堀は明らかに違いがある
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清州城と名古屋城はそれほど遠くない距離にある
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名古屋城は本丸だけでも戦える城だった
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織田信長が本拠としていた清州城は尾張の中心都市だったが・・。