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悲惨「時には皆殺しも必要」八王子城

東京都八王子市、高尾山に近い山の上に八王子城の跡があります。

この城は関東の大勢力北条家の一門、氏照が築いたもので、本拠小田原城に次ぐ重要な城でした。

北条氏照は八王子城の築城にあたって、織田信長の安土城を参考にしたとも言われています。似ているところを探すのも面白いですね!


関東では珍しい石垣を築き、先進的な御殿を建てました。

ところがこの八王子城は築城からわずか三年ほどで落城し無くなってしまいます。


天下統一を進める豊臣秀吉が万を超える大軍でこの城に攻めかけたのです。

このとき八王子城には留守部隊としてわずかな家臣と兵しかいませんでした。

圧倒的不利な状況で抵抗を続け秀吉の「時には皆殺しも必要」という方針から悲劇的な落城を迎えるのです。

八王子城跡の見学には、はじめにガイダンス施設を訪れると良いと思います。


無料駐車場のすぐ隣にあり、展示解説スペースなどがあるので、見学の参考になります。


このシーンが含まれる素材動画はこちらhttps://studio-kuruwa.com/shop/hatiouji1/

八王子城がある山の麓には川が流れており、この谷間に沿って進んでいきます。

川の北側の道は江戸時代になって開かれたもの。


氏照の頃の道は川の南にあったと思われます。



川を渡った先は古道と呼ばれ、南側の山すそを通って氏照の館である御主殿に通じていました。



古道を進んでいくと大きな橋が見えてきます。これが氏照の館へ続いています。


当時の橋がどのような様子だったのかよくわかりません。


敵が攻めてきたら板を外して通れなくさせる造りだったのか、橋桁ごとスライドする造りだったのかなど、いろいろ考えられています。

途中には門があったようで、柱を乗せる礎石が四カ所ほど置いてあります。
(本物は保存のため埋めもどされています)


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関東の城としては珍しく石垣が使われているのがポイント。まっすぐな階段の先に主郭のある山が見えるのが安土城と似ていますね!



門をくぐった先が御殿のあった曲輪。山すその明るい場所です。


このあたりは発掘調査が行われ、(五彩磁器皿)磁器や茶道具、香炉、ベネチアンガラスなどが出土し、城内の優雅な生活がわかります。


主殿は氏照が政務を執り、また生活する場だったのだと思われます。

奥には会所という建物があり、会見などの後、こちらでもてなしたのでしょう。



北側には池を持つ庭園があったようで石が並んでいます。(このなかの石の1つのみは戦国時代当時のものである。)



これらの建物があった曲輪の一段下、川沿いには「御主殿の滝」があります。八王子城が落城したとき、ここに多くの人が身を投げて亡くなったといわれています。

御殿のある曲輪の東側はアシダ曲輪などで防衛されており、居館地区の南側尾根にある太鼓曲輪は5つの深い堀切で区切られていました。

谷間の東には城下町が形成され、八王子城はこれらの山全体を取り囲む巨大な城だったのです。

氏照が入城した時は、御主殿など含む主郭部と一部の主要な要所部分のみ完成しており、八王子城は落城を迎える日まで改修が続けられたと考えられています。



八王子城は標高445mの山に本丸を置く山城です。


八王子城の要害地区、本丸あたりまで登ることができるので、みて見ましょう。



山の入り口には鳥居があります。


山頂付近に八王子神社があるのでその参道という事だと思います。

この道はかなりきつく、登るのにかなりの覚悟が必要です。


距離で言えば1キロほどなのですが、頑張っても40分はかかります。

道の左右は崖になっており、尾根伝いに進んでいることがわかります。

途中、平らに削られている部分がいくつか見られ曲輪の跡だと思います。


下から登ってくる敵兵をこのような場所から攻撃するのでしょう。


陣馬街道に続く分岐の先からは更に勾配がきつくなり、道が折れ曲がります。


頭上に高丸の段が見え、このあたりは防御のポイントだったのでしょう。



山頂部に近づくと道が平坦になります。


途中素晴らしく景色が開ける場所があります。

とてもきれいな景色ですが当時の兵士たちはどのような気持ちで見たのでしょうか。




山頂部は意外と広いスペースが確保され、氏照がこの城の守護神とした八王子神社があります。


この城と町名の由来となったとされています。

神社の裏の一段高い場所が本丸。その左右に松木曲輪、小宮曲輪が配置され、城の中心部を守っていました。

現在八王子城の要害地区を訪れても当時の遺構がどうなっているのか正直わかりにくく、きつい山登りの記憶だけが残ります・・。

攻めるだけで寄手の兵が疲れ果ててしまうこの高さが山城の最大の武器なのだ!ということならば、十分納得できます。

お城動画の台本(113ページ)




天正18年、全国のほとんどの大名をまとめ上げた豊臣秀吉は、いつまでも従わない関東の北条家に対し宣戦布告、軍を東に進めます。

圧倒的な兵力で箱根山中城を落城させ、北条家の本拠小田原城を20万を超える大軍で包囲、笠懸山に巨大な石垣づくりの城を築きます。


そして豊臣軍は関東各地の北条家の城を次々と攻略していきます。

北条家第二の城であった八王子城には、上杉景勝、前田利家など1万5千の兵が迫ります。

戦いの前、前田利家は八王子城に使者を出し「ほかの北条家の城も次々と降伏している。八王子城も明け渡してもらいたい。そうでなければ攻め落とす」と伝えます。

このとき八王子城主北条氏照は本隊を率いて小田原城の中におり、八王子城は(横地監物吉信)城代とわずかな家臣(狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀)が守っていました。

他にはわずかな兵と領内から動員した農民、婦女子(3000)がいるくらいで、とても戦える状態ではなかったのですが、八王子城側はこの使者を斬り、戦うことを決めます。

城主氏照不在の八王子城は、圧倒的不利を承知で戦うことを選択したのですね。



攻撃は深夜(早朝)から始まりました。

豊臣軍は城下町の守りを突破、山の下の曲輪に迫ります。

八王子城の城兵たちは抵抗しますが、これらの曲輪を短時間で落とされてしまいます。



夜が明けたころには、北条氏照の御殿がある「御主殿」の曲輪に豊臣軍が攻め込みます。


御殿にいた侍女たちは滝の側に逃げますが、迫りくる敵兵を見て絶望し、自害してしまいます。


氏照の妻比左は若君を抱いて、滝に身を投げたと言われています。



豊臣軍の前田利家隊は中腹の(金子家重が守備する)金子曲輪を激しい銃撃戦のすえ攻略、さらに山を登って山頂に攻めこみます。


城代(横地監物吉信)をはじめ北条方武将がそれぞれの曲輪に入り、連携して防御にあたります(「小宮曲輪」には狩野一庵、「中の曲輪」には中山家範、「山頂曲輪」には横地監物と大石照基)。


ここでの攻防は激戦を極め、前田隊は家臣(青木信照)など30名が討死するなど苦戦を強いられます。



ところがこの戦いの最中、不意に城の北側から豊臣軍が現れます。


密かに沢を伝ってのぼってきた上杉隊は小宮曲輪を奇襲、守っていた城兵たち(狩野一庵)は混乱し曲輪は危機に陥ります。

どうして上杉隊はこんな場所から城を攻撃することができたのか、それは八王子城の普請に携わった者(普請奉行 平井無辺)を調略し、城の中心部に一気に近づく抜け道を聞き出していたのです。(上杉景勝の武将・藤田信吉)

この上杉隊の突入により八王子城の防御ラインは崩壊、矢倉に火がかけられ、北条がたの多くの武将が討死、また自害し、北条氏照が築いた関東で最も守りの固い山城、八王子城は落城してしまうのです。

(中山家範と狩野一庵は曲輪の中で自害、大石照基は討って出て討死、中山家範は奮闘の後に自刃、八王子城代横地監物は山伝いに逃亡檜原城へ小河内村付近にて切腹)

深夜から始まった豊臣軍の攻撃は早朝には終わったようで、開始からわずか数時間の戦いでした。

この八王子城の戦いでは、城兵だけでなく女子供も含めて1000人以上(1200人以上とも)が虐殺され、御主殿の滝は3日3晩、血に染まったと言われています。




戦後、関東の新しい領主となった徳川家康は、八王子城を廃城とします。

そして大量虐殺のたたりを恐れ、この一帯を徳川家の領地(幕領)として人々の立入を禁じたと言われています。

徳川家康は八王子城の何を恐れたのでしょうか・・

この禁制地としての扱いは江戸幕府の終わりまで続き、八王子城は長い間誰の目にも触れず土に埋もれていきます。

現代になって人が立ち入るようになり、眠っていた遺構が次々と発見され、私たちが今見学しているということなのですね。