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幻に終わった徳川家康最後の居城計画


長く続いた戦国の世を終わらせ、260年にわたる泰平の世を築いた徳川家康。
その生涯の終わりを、現在の静岡市にあった駿府城にて迎えたことはよく知られています。

家康にとって駿府は今川義元のもとで少年時代を過ごし五ヶ国の太守時代に本拠とした馴染みのある土地。

将軍の座を息子秀忠に譲り隠居城として大改修された駿府城には、最大規模の天守が建てられ、徳川の本拠江戸を守るため東海道を攻め上ってくる西国大名があれば家康自らが盾となる覚悟もあったのでしょう。

家康が亡くなったのは大坂の豊臣秀頼を滅ぼして間もなくのこと。
徳川家にとって最大の懸念を取り除いた直後の人生の幕引きは、まるで自らの寿命を知っていたかのようですね。

しかしこのときの家康はすべてをやり切ってホッとしていたのではなく、次なる計画をひそかに立てていたようなのです。
それは新たな隠居城を築くこと。

名古屋城や駿府城のような江戸を守る関門をさらに増やすということでしょうか、それとも自らの安らぎの場所を求めるためでしょうか。

理由はわかりませんが、家康は駿府城を一門に譲り、別の地において徳川家を守ろうと考えていたのかもしれません。

この家康最後の隠居城計画の候補地となったのは、現在の静岡県三島市付近にある川のほとり。近くには東海道が走り、箱根山を背後に抱える交通の要衝です。

富士の麓の広大な平野に駿府のような城が築かれていたら、このあたりに巨大な町が出現していたのかもしれませんね。


この隠居城計画は、残念ながら家康の死によって実現しませんでした。しかし天下人家康の心を動かしたのは、一体どのような場所だったのでしょうか。

今回は有名な清流のほとりにあった小さな城、泉頭城に行ってみます。

静岡県にある日本三大清流のひとつ柿田川は、長さわずか1.2キロというとても短い川。
ちなみに他の三大清流をみてみると四万十川の長さは196キロ、長良川は166キロ。規模が全然違います。

それでも柿田川が肩を並べているのは、この川に特別な魅力があるからです。

柿田川の水源は大量の湧水。東洋一と言われるその水量は1日100トンと言われています。
富士山に降った雨水などが地下にもぐり、この場所で一気に湧き出すという、とても珍しい構造。
年間を通して水温は15℃を保ち、水量も安定しているそうです。
この大量の湧水によって突然柿田川が出現し、少し先にある狩野川に合流し駿河湾に注いでいるわけです。

湧水の周りは柿田川公園として整備され、開放されています。
国道一号線沿いの店舗などが立ち並ぶ市街地にあってアクセスも良く、特に夏場は多くの人で賑わうそうです。
公園内にはベンチや案内看板が設置されており、湧水を見学できる展望台もあります。まずはこの柿田川を見てみましょう。

国道一号線のすぐ脇、公園内の階段を下った場所から水が湧いています。目の前にはたくさんの水をたたえた川が広がっており、ほんとうにここから柿田川がはじまっていることがわかります。
この水すべてがこの場所で湧いたものなんてとても信じられませんね。水の底に目を向けるとあちこちから水が噴き出しているのがわかります。

おすすめと言われているのが第二展望台からの眺め。
青く見える川の底からどんどん噴き出す水を見ていると時間が経つのを忘れてしまいそうです。
水中にある丸いものはかつてここにあった紡績工場が井戸として使用していた名残だそうです。



この柿田川公園一帯には、戦国時代北条家によって泉頭城という城が築かれていました。
国境付近の城として武田家に対する拠点だったのですが、現在公園内を歩いても「城の跡」という雰囲気はほとんど感じられません。
わずかに案内看板によってわかる程度で、おそらくここを訪れる方のほとんどがそんなことは知らないのでしょう。

それでもなんとなく戦国の城っぽい雰囲気が残っている場所を探しましたので紹介します。

まずは公園内にある貴船神社のあたり。この神社は台地の突端部分にあり、周りはグッと下った地形となっています。
見上げてみると曲輪の跡のように見えます。
ここは西曲輪の先に位置し、川に面した砦のような役割があったのかもしれません。

次は水遊びができそうな湧水広場にやってきました。
ここから東側にある高まりを貫いて駐車場にむかう道があるのですが、このあたりもなんだか城っぽいですね。
きっと曲輪を遮断する堀切なのだと思います。
現在の駐車場あたりが泉頭城の本曲輪だったようで、川につながる曲輪との間を区切っていたのでしょう。

さらに小川沿いの道を歩くと、上にやはり堀切のようなものが見えます。
これも本曲輪から川につながる曲輪とを、遮断するものだと思います。
このように泉頭城に残る遺構は本当に少ないのですが、マニアックな目で眺めれば、なんとなくここが城であったことがわかってくるのです。

泉頭城域には柿田川に向かっていくつもの谷が走っており、それらを跨ぐように複数の曲輪が設けられていました。
城は現在の公園の外側にも広がっていたとされ、北側には馬出を備えた複雑な形の虎口もあったようです。

本曲輪の東側にも曲輪があり、その外には堀がぐるっと巡っていました。
現在周囲は市街地となっているため、このあたりの城の痕跡はほとんど確認することはできません。

泉頭城は柿田川を背にした複雑な地形を利用して築かれていますが、谷部分との高低差は10m程度でほぼ平坦な場所にあり、守りの固い城とは決して言えなそうです。

本曲輪から続く柿田川に面した台地の先端付近には「船付曲輪」があります。
このあたりも「城」という雰囲気を感じることができる場所です。
その名の通り船がここにつけられ、いろいろな物資が城内に運び込まれたのでしょう。

柿田川はこの先で狩野川そして駿河湾に通じており、泉頭城は水運に恵まれた城であったように思えます。
堅固な防御で敵を防ぐというより、むしろそちらの方面での利用が目的だったのかもしれませんね。


関東に勢力を張った北条氏が国境付近の城として築いた泉頭城は、甲相駿三国同盟の破綻後、急遽整備されたようです。

泉頭城で戦いが行われたのは天正九年(1581)のこと。
城の南にある戸倉城の兵による攻撃を受けたときです。
このとき泉頭城の城兵たちはここに籠って応戦し、城を守り抜いたと言われています。
その後も泉頭城は北条家の城として使われますが、天正十八年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐のあたりで使われなくなり、廃されたと考えられています。

それから約25年後。朽ち果て忘れ去られた泉頭城の跡に目を付けたのが徳川家康です。

家康が泉頭の地を知ったのはおそらく天正14年(1586年)あたり。
北条氏政との会談のときと思われます。

この頃の家康は急速に力を強めた大坂の秀吉に臣従しようかどうか迷っているところであり、関東の北条家との関係を深めるため、三島付近で氏政と数日にわたって会談と酒宴を行っています。
この滞在中に、泉頭城の存在を確認していたのかもしれませんね。

その後天下泰平の世を築いた家康ですが、やがて訪れる自分の死後のことは心配で仕方がなかったのでしょう。

徳川の本拠江戸城をこれ以上ないくらい堅い守りにし、名古屋、駿府と江戸につながる防衛拠点を築きましたがまだ安心できず、「さらに泉頭に城を築く」という考えに至ったのかもしれません。

泉頭築城計画は元和元年(1615年)から。

大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後、家康は江戸城へ入るのですが、そこから駿府へ帰るとき泉頭を隠居所と定め、本多正純らに新城の縄張りを命じています。

またこの時期には側近と大名との間で「家康が伊豆三島の近辺においてご隠居所を建てられるようだ」という内容の書状がやり取りされており、同年12月の書状には「いづみかしら」という具体的な地名も記載され、計画が進行していった様子を知ることができます。

果たして泉頭に築かれる予定だった城は、いったいどのようなものだったのでしょうか。

家康が泉頭城を江戸を守る新たな拠点と考えていた場合、既存の城をすっぽり包むような、巨大な城となったでしょう。
周辺は平らで、柿田川があるとはいえそれほど要害堅固な地には見えません。
おそらく駿府城のような平城が築かれ、東海道を通る人々を驚かすような巨大な天守が建てられたと考えられます。

泉頭の城下町は柿田川と狩野川の水運によって駿府と結ばれ、たくさんの品々が運びこまれます。
泉頭城は内陸にありながら海ともつながる水陸交通の拠点として、まるで伏見のような町がここに出現したのかもしれませんね。



一方、東海道にこれ以上城はいらないと判断された場合、泉頭城はやや小規模な館のような作りになっていたのかもしれません。
この湧水はおそらく当時も同じような状態であったと思われますが、崖の下から突如湧き出す大量の水の流れはどこか神がかっていますね。

湧水が館の中に取り込まれたのか、それとも城下町の一部になったのか、勝手に想像するととても楽しいです。

さらに家康が泉頭城にて亡くなったとしたら、葬られる場所はどこだったのでしょうか。
計画だけで終わった家康最後の隠居城の話は、妄想が止まりません。

家族で訪れても十分楽しめる気の利いた公園としておすすめ。一度訪れてみてください。