実は未完成?とんでもない要塞になるはずだった伊賀上野城(三重県伊賀市)

こんなに高い石垣があるのはどうして・・?

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高さ30mの上野城本丸西側石垣


今回紹介するのは三重県伊賀市にある上野城です。

伊賀と言えば忍者ですが、上野城に関しては忍者はあまり関わっていません。
戦国大名によって築かれた城です。

この上野城の見どころは、なんといっても高い石垣。
本丸西側石垣の高さはなんと30m。大坂城に次ぐ二番目の高さです(城別)。

さらにすごいのは現在この石垣の端まで行って、下を見下ろすことができること。
普通、こんな危ない場所、立ち入り禁止になりそうですよね。

近くに「危険」とか「注意」とか書いてある看板はありますが、柵などはありません。

「怖い怖い」と言っても見たくなるもの。
私が行った時も大勢の方が石垣の端から下を眺めていました。
自己責任で気を付けて見学しましょう。

この立派すぎる上野城ですが、意外なのは高石垣があるのは城の一部分だけ。
普通お城の周りってずっと石垣で囲みますよね。

一か所だけガッチリ石垣で囲んでも他の場所がユルユルの防御だったら、そこから攻め込まれてしまうので意味がありません。

ところが上野城は、ガッチリ防御の場所とユルユル防御の場所の差が、激しい城なのです。

本丸西側は日本有数の高い石垣で防御。
それに対して東側は土塁で囲まれています。

土塁による防御がユルイとは言いませんが、これだけ高い石垣を築いておいて、他の部分は土塁というのは不自然ですよね。

実はこの上野城は「未完成だった」と言われています。
高虎はもっと立派な城にするつもりだったのに、何らかの理由で工事が中止され、そのままずっと使われていたようなのです。

いろいろ謎がありそうですね。

伊賀上野城と築城の名手「藤堂高虎」」

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徳川家康は大坂城包囲網を画策した


伊賀上野城の情報を整理してみます。

まず上野城がいつ頃現在の形になったのかですが、大規模な修築がおこなわれたのは1611年頃です。

これは、徳川家康が関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍を破り、江戸に幕府を開いてちょっと経った頃。
江戸の徳川家と大坂の豊臣家の戦いが始まるかもしれないという嫌~な空気が流れていた時代です。
実際、この数年後には大坂の陣が始まるのです。

当時豊臣秀吉の子、秀頼は大坂城周辺の国を支配する、それほど大きくない大名となっていたのですが、彼には秀吉以来の武将たちの厚い支持が集まっていました。

家康が恐れていたのは西国の大名たちが秀頼を担ぎ上げ反乱を起こすこと。

何かをきっかけに彼らが軍勢を集めて家康の居城江戸に向かって攻めてくることも十分考えられたのです。

家康はこれに備えて、大坂城の秀頼の動きを封じるため「大坂城包囲網」作戦をとります。
家康は「天下普請」と銘打ち、全国の大名を動員して大坂城を囲むようにいくつも城を築かせます。

その一環として上野城も修築されました。

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藤堂高虎像

上野城を現在の形にしたのは藤堂高虎。
高虎はこれまでに家康の命に従って多くの城を築いてきました。

高虎は「築城の名手」と呼ばれ、今治城・篠山城・二条城といった有名な城をいくつも築城してきました。

高虎は、近江国の生まれ。身長6尺2寸(約190cm)の大男だったと言われています。

初めは近江の「浅井長政」に仕え「姉川の戦い」で足軽として武功を上げます。
その後何度か主君を変え、羽柴秀長、そして秀長の子「豊臣秀保」に使えますが、秀保が17歳で亡くなり主家が断絶すると、高虎は主君を弔うため出家して高野山に隠棲したといわれています。

その功績を惜しんだ豊臣秀吉が高野山から高虎を呼び寄せ、伊予宇和島7万石を与えます。秀吉は先に亡くなった弟秀長から高虎の働きぶりを聞いていたのでしょう。

秀吉の死後、高虎は徳川家康に接近。高虎は家康のために忠節を尽くすようになります。
関ヶ原の戦いの前、家康襲撃の企みがあるとわかったとき、自ら徹夜で警護にあたりました。

また関ヶ原の戦いでは、西軍の「小早川秀秋」らの寝返り工作を行うなど、東軍の勝利に貢献します。

高虎が家康のために働くことについて「豊臣に恩を受けたのに徳川につくのはどういうことだ」と言う武将もいたようです。

しかし仕える主君を間違えば自分も家族も命を奪われる時代。
次の時代をまとめ上げる者は誰なのか、しっかり見定める力が高虎にはあったのでしょう。

高虎はいわゆる外様大名だったのですが、家康からの信任は厚かったようです。
そして大坂城包囲網の多くの城について、縄張りを任されることになります。

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高虎は生涯で何度も主君を変えた

家康は高虎を伊勢・伊賀の太守に封じ、ここを抑える城造りを命じます。
伊賀は大坂から大和を経て伊勢湾に通じる最短ルート、重要な地ですね。

高虎はこれを受け、それまで筒井氏の城だった上野城を高虎流に修築していきます。
あの高い石垣もこの時に築かれたのです。

こうして、豊臣秀頼がいる大坂から徳川家の本拠江戸に通じる街道はいくつもの城によって守られ、上野城には大坂城包囲網の一つとして西から攻めてくる敵を迎え撃つという大切な役割があったのです。

高虎が建てたかった上野城五層天守

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上野城復興天守

伊賀鉄道上野市駅の北側の丘が上野城の跡です。
付近に何か所か駐車場があります。有料ですが街中なので当たり前ですね。
1回500円から600円くらいでした。

公園の入口から坂道をちょっと登ったところに上野城の天守があります。
この天守は昭和になって建てられたものですが木造による本格的なもの。これはこれで大変価値があります。
層塔型3層3階、高さ23mの大天守と、2層2階の小天守が並ぶ姿はカッコいいですね。

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天守内部には忍者が・・

天守内部での動画撮影は禁止されていますが、静止画は良いとのことです。
天井付近に忍者が隠れています。

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趣のある木造天守



内部にはいろいろなものが展示してあるのですが、私が気になったものを紹介します。

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藤堂高虎の兜



これは藤堂高虎の兜です。信長の野望でみたことがあります。
豊臣秀吉から拝領したものということですが、高虎は秀吉にも家康にも頼りにされた武将でした。

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層塔型の上野城五層天守



これは高虎が上野城に建てようと計画していた天守の想像図です。
最上階以外には破風を一切用いない、スッキリとしたデザインですね。
一階から上に向かって規則的に小さくなる層塔型天守です。

この天守ある程度まで建設は進んだようなのですが、完成前に嵐で倒壊してしまったようです。
残念ですね。

その後上野城には天守が建てられることはありませんでした。
現在、上野城天守の周りには空いているスペースがあります。

これは5層の高い天守を建てるために築かれた大きな天守台の上に三層の天守が建てられたためです。

怖いけれど見たくなる上野城の「高石垣」

あまりにも高すぎる石垣上は足がすくむ・・


天守の西側に日本でも有数の高さを誇る石垣があります。
「キケン」と書いてありますが立ち入り禁止とはなっていないようです。

これが高さ約30mの石垣です。ほんと手が震えます。
カメラを落としたら終わりですね。いや転落したらすべてが終わります。

これだけの高さの石垣の上に立つという経験はなかなかできません。

それにしてもこの高さまで石垣をどうやって積み上げたのでしょうか、怖くはなかったのでしょうか。
そしてこんなに高くしなければいけなかったのでしょうか。

当時の人たちは相当苦労してこの石垣を築いたのだと思います。

上野公園の西側に回るとこの高い石垣を下から見上げることができます。

ちょっと木が生い茂っていてスッキリ見えません。
城好きとしてはこのあたりの樹木をバッサリやってもらえばありがたいのですが、いろいろな理由があるのだと思います。

北側に回ると空いているスペースがありましたのでそこから撮影しました。水堀と高すぎる石垣。もうここから石垣を登って城に攻め入ろうなんて絶対考えませんよね。

見ただけで「無理だ!」と誰もがわかる迫力の石垣なのです。

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「こんなところ登れない」と一目でわかる高石垣

謎だらけ?未完成だった上野城


これは上野城の図です。
天守と西側の石垣が描かれていますね。この図をみて何か違和感を感じるでしょうか・・。

上野城の図(天守閣説明資料より)


よく見ると本丸の周りの造りがちょっとおかしいのがわかります。
西側と南側は石垣でガッチリ囲まれているのに対し、北側と東側には石垣がありません。

本丸は城の中心となる部分。戦いのときはここを最終的に守り抜くのですが、その防御が西側と東側で違うというのはちょっと不思議なことです。

上野城本丸は西半分が石垣、東半分が土塁になっているのです。

上野城が改修された理由は大坂の豊臣氏に備えるため。
大坂城を城で包囲し、豊臣軍が西から攻めてきたときはこの城に籠り防ぐのです。

はじめ、藤堂高虎は現在の上野城東側にあった筒井氏時代の本丸を西側に拡大し5層の天守を建てようと計画します。
そして本丸の周りに高い石垣を築きます。上野城は5層の天守があがり高さ30mの石垣で囲まれる、日本一の要塞となるはずだったのです。

しかしその工事はなぜか途中で終わってしまいました。
その理由は、豊臣家が滅亡したからだと考えられます。

豊臣家滅亡とともに終わった上野城工事

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天守から大坂のある西側を望む

徳川家康は1614年、1615年の2度にわたり全国の諸大名と共に大坂城を攻撃。
この大坂の陣によって豊臣秀頼は自刃し、全国に徳川家に対抗できる大名はいなくなりました。

天下は徳川将軍家のもとひとつとなり、それまで行われていた戦いが無い時代が訪れるのです。

西側からの防御を優先し高い石垣で防御を固めようとした上野城ですが、平和な時代となったので工事を中止。

それ以上石垣で囲むのをやめ、本丸の北側や東側の防御はそれまでにあった土塁をそのまま使うことになりました。
また、倒壊した天守を再び建てることもありませんでした。

本丸には5層天守を建てることができるほどの大きな天守台が残り、西側だけ日本有数の高い石垣で囲まれるという、不思議な形となって現代に伝えられることになるのです。

もし、大坂の陣の発生が遅れていれば上野城は相当立派な城になったはず。
それも見てみたかったですね。
計画していた城造りが途中で終わってしまった高虎。
残念な気持ちもあったのでしょうか。

結局家康が恐れていた「西国の大名たちが豊臣秀頼を担いで江戸に攻めてくること」はありませんでした。

高虎が築いた多くの城がそれを防いだのかもしれません。
高虎の築城術は平和な時代の到来に一役買ったと言えるかもしれませんね。

その後、藤堂高虎は津を本拠とし、上野城は未完成のまま使われます。

徳川家康は「藤堂家は末代までも伊賀・伊勢から動かしてはならない」と遺言を残したと言われ、この重要な地を信頼できる藤堂家がずっと支配することを望んでいました。

その望み通り藤堂家は幕末まで伊勢・伊賀の大名として続くのです。