愛知県知多半島。海に面した丘の上に戦国時代の城の跡が残っています。
その規模はかなり大きく、地図で確認できるほど。
城の名は大草城。天正年間に織田信長の弟、長益によって築かれたと言われています。
当時天下に一番近かった戦国大名織田家。その一門の城ということで、かなり立派なつくりだったのでしょう。
ところが大草城にあったのは堀と土塁だけ。この上に天守や櫓が建てられることはありませんでした。
実は土台部分まで造ったところで工事は中止。未完成の城なのです。
さらに面白いのは城の跡が当時のまま残っていること。その後壊されることもなく現在に至ります。
織田信長の弟の城にして未完成、再利用されることもなく残る。大草城は謎の多い城です。
織田有楽斎の城「大草城」
大草城は標高11mほどの丘の上にあります。小さな駐車場があり、公園となっています。
天守風建物とグラウンドがあるところが本丸。周囲に土塁の跡が残っており、その上を歩くことができるようになっています。
全体的に見ると、大草城は台地の南に本丸を置き、その北側に少しずらして二の丸。さらにその北側には三の丸があったよう。
城の西側には街道が通っており、台地の高い場所を利用して家臣の屋敷や町が並ぶようになっていたのでしょう。
佐治一成の城「大野城」
大草城の向いの山に目を移すと城が見えます。戦国時代この地を治めていた佐治氏の「大野城」です。
大野城は大草城から車で10分ほどの山の上にあります。階段を登っていくと公園となっていますが、城の曲輪の跡のような場所がいくつもあります。山頂には天守風の展望台。登ってみましょう。
大野城展望台からの眺め。伊勢湾が広がります。
先ほど見学してきた大草城があるのは向かいの丘。展望台の屋根が見えます。
佐治氏は桶狭間の戦いの後、織田信長の配下となったようです。
信長は佐治信方に妹於犬(おいぬ)の方を嫁がせたので、佐治家は織田一門衆クラスとも言えますね。
残念ながら信方は(天正2年(1574年))伊勢長島の一向一揆鎮圧で討死。
佐治家は信方と於犬の方の子一成(かずなり)が継ぎますがまだ幼かったため、織田長益がこの地に入り補佐したと考えられています。
後に豊臣秀吉は、成長した佐治一成に浅井三姉妹の末っ子、江を嫁がせています。
その後の二人の運命は別として、佐治家は二代にわたって織田の血を引く姫をもらい受けたということになります。
信長も秀吉も、どうして佐治家とつながりをもちたかったのでしょうか。
「大野谷」は伊勢湾の制海権を制する重要な地だった
この一帯は大野谷と呼ばれていました。
そして伊勢湾につながる矢田川の下流が大野の港。
江戸時代には多くの船があったことが記録されており、常滑街道の橋のあるあたりが一番栄えていたと言われています。
戦国時代には「大野水軍」が拠点を置き、巧な操船技術によって伊勢湾の海上交通を掌握していました。
これを束ねていたのが佐治氏。
織田信長は1569年ごろから伊勢に軍を進めますが、その作戦遂行のために佐治氏と大野水軍の力が必要だったのです。
妹を嫁がせてまで佐治氏を取り込もうとした理由は、その水軍力にあったのでしょう。
後に秀吉がお江を嫁がせたのも同じような理由から。
戦国時代大野の谷は、戦略上とても重要な場所だったのです。
織田有楽斎の大草築城
佐治一成の補佐のためここに入った織田長益は水利の悪さを嫌って大野城は使わず、港により近い場所に大草城を築いたと言われています(諸説あり)。
と言っても佐治家と今後も手を結ぶことを考えれば、大野城に入らないのはあたりまえですね。
一方で、大草城の方が港にも近く管理はしやすそうです。
さらに立派な城を築いて織田家の力を示すことも必要。
大草城に巨大な堀が造られはじめたのはそのためだったのでしょう。
その後しばらくの佐治家の様子は明らかではありません。
おそらく一成は家臣に支えられ立派な武将に成長していったのでしょう。
長益は織田信忠に従って各地へ転戦。大草城にいることは少なく工事はなかなか進まなかったのかもしれません。
大草城も大野城も城主を失う
本能寺の変で織田信忠とともに京にいた織田長益。
なんとか脱出し命を長らえます。
織田家の後継者を巡る争いでそれどころではなくなったのか、結局大草の城を完成させることはできませんでした。
後に秀吉の命令によって摂津に移されます。
大坂の陣では家康の許しを得て城を退去し、晩年は京で過ごします。
お江と離縁させられた佐治一成は、伊勢に蟄居。
その後織田信包に仕えるなどし、寛永11年(1634年)京都にて65歳で死去したと言われています。
大野城も大草城も城主を失って使われなくなり、自然に帰っていったのです。
大草城の堀が残された理由
江戸時代この地を治めた尾張藩は、大草城の跡を戦略上重要な地と考えます。
そして城の近くに屋敷を建て「城代家老」を住まわせ、保全させたと伝わります。
戦いのための城は必要でなくなった時代。一国一城令により多くの城が取り壊されました。
大草城の跡は決して城ではありませんが、堀も土塁もそのまま残され、いざとなればすぐに使える状態にしておこうと管理されていたのです。
主要な街道と港を押さえる絶好の地にあったからですね。
織田長益が目を付けた港を望む城の跡は、このような不思議な経緯によってその姿を現在まで留めているのです。