眠れる戦国城下町「一乗谷」繁栄編(福井県福井市)

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朝倉義景


越前の国、現在の福井県を治めた戦国大名朝倉義景公です。
有名な織田信長や武田信玄、上杉謙信と同じ時代に活躍した戦国大名ですが、人気はちょっとイマイチのよう・・。

将軍の弟、足利義昭が朝倉を頼って越前に来た時、義景は義昭をもてなしますが共に上洛する様子はなし。

待ちくたびれた義昭は織田信長とともに上洛、室町幕府15代将軍となります。

その後義景は急速に力を強めた織田信長を包囲網によって追い詰めますが、いいところで引き上げてしまう。

ついには近江からの退却時、信長率いる織田軍にさんざんにやられ、そのまま越前に攻め入られ朝倉家は滅亡。

後になってみれば、あのとき上洛しておけばよかったとか積極的に信長を攻撃しておけばよかったなどチャンスを逃した感はありますよね・・。

「一乗谷」は戦国時代日本有数の城下町だった

この朝倉義景は豊かな国越前を長く治めた戦国大名の5代目。
近隣諸国から一目置かれる存在でした。

本拠地一乗谷は当時有数の城下町を持ち、多くの人で賑わい、交易によってもたらされた珍しい品々が取引されていました。足利義昭が朝倉を頼ったのもその実力を知っていたからこそなのです。

美しく豊かな朝倉の首都一乗谷は、織田信長によって焼き払われ、長く土に埋もれていましたが、近年本格的な発掘調査が行われ、当時の様子がわかってきました。

当主義景の館をはじめ家臣の屋敷や商人の町の跡が発見され、それをもとに復元された建物を見て回れば戦国時代の城下町はこのような感じだったのかということがよくわかります。

現代によみがえった幻の城下町、朝倉氏の一乗谷はいったいどのような町だったのでしょうか。

細長い谷の中に1万人が住んでいた!

福井県福井市。広大な平野が終わった山のはじまりに朝倉氏の本拠地、一乗谷の入り口があります。

ここは越前の中心である「国府」、そして美濃への通り道である大野との間の重要な地。
南北2キロほどの細い谷間に、朝倉家の館をはじめとする町が造られはじめたのは義景の5代前、孝景のころと言われています。

一乗谷の両側にある山には詰城がいくつも築かれ、谷を囲むようにならんでいます。
谷の南北は上城戸(かみきど)・下城戸(しもきど)と呼ばれる土塁や堀によって区切られた巨大な防御施設があり、これによって全体を防御する造りとなっていました。

山に囲まれたこの空間にはなんと一万人を超える人たちが住んでいたようです。

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一乗谷の様子(現地案内看板より)

この下に「戦国都市」がそのまま埋まっている


この一乗谷のすごいところはこの都市がそのまま埋もれていること。
織田信長によって焼き払われた後ここは使われることなく田んぼなどになっていたようです。

一乗谷が抱える問題としてその狭さがあり、この谷の中に1万人が住むということは余っているスペースはほとんどなかったのだと思われます。
町は早くから上下二つの城戸の外まではみ出して造られ、もう限界だったのでしょう。

大きな国造りを目指す信長がここを再利用するはずはありません。
結果、田んぼに埋もれた最高の状態で一乗谷は保存され、私たちは発掘調査に基づいて復元された建物などを見学する事が出来るのです。

復元された街並みで戦国時代を体感

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復元武家屋敷

中級クラスといわれる武家屋敷です。
30m四方の塀で囲まれた敷地の中に主殿、納屋などいくつかの建物が並んでいます。内部もしっかり再現されています。

主殿には畳の部屋と台所のようなスペースがあり、ここで生活していたのでしょう。

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ここの主人でしょうか、将棋をしていますね。畳が3枚敷いてあるくらいの離れの座敷があります。

お茶をたてて飲んだのでしょうか。
外に目を向ければ塀越しに朝倉舘や一乗谷を守る山城まで見わたすことができます。

武家屋敷の柱や梁はかんなやちょうなで加工され、当時としてはかなり進んだ建築様式であったようです。屋根は割板で葺かれていました。

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これはトイレで、下にあるのは水を流すスペースです。

戦国時代のお店の様子もわかる

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お店のようです。中に並ぶのはさまざまな器。

ここで造られたのかそれともほかの国から流れてきたのか、もしかしたら海をわたってきたものかもしれませんね。

ご主人と奥さんで店を切り盛りしているのでしょうか、奥から子供が顔をのぞかせています。
この時代、物々交換ではなく貨幣が流通し、現代と同じようにお金で買い物することができました。

一乗谷の発掘調査では大量の貨幣が発見されています。

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こちらは鍛冶屋さんでしょうか、この街並みをつくるための道具がおいてあります。
「ちょうな」という道具は木材をちょんちょん削って形を整えるもの。

この家の梁はこれを使って形を整えてあります。
店の屋根には板が飛ばないように石が置かれています。

この時代瓦は寺院くらいにしか使われておらず、一乗谷は独自の感性で、木でつくられた建物で統一されていたのかもしれません。

水路が張り巡らされた清潔な町

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復元街並みの外に広がる町の跡。
当時、このあたりには先ほどのような建物がびっしり並んでいたのでしょう。

ここで目立つのは井戸。
これと同じものがあちこちにあるのがわかりますね。

武家屋敷の中はもちろん、多くの町屋でもすぐ近くの井戸から水を利用できるようになっていたのです。
あちこちに張り巡らされた水路の跡も見えます。

今でいう上下水道を完備した町だったのですね。

外国とも通じていた一乗谷

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発掘調査で発見されたガラスでできた器の破片。
ベネチア製ゴブレットの一部のようです。

戦国時代、この一乗谷まではるかヨーロッパから運ばれてきたのでしょうか。

越前では古くから九頭竜川の河口に三国湊が開かれ、義景が家督を継いで3年目のとき、外国の船がここに入ってきたようです。

このとき乗組員のために宿舎が用意され、外国の話を聞こうと多くの人が詰めかけたという記録が残っています。

当時の人は好意をもって歓迎したようですね。

この三国湊から九頭竜川をさかのぼり足羽川を通れば一乗谷に着くことができます。

流れに逆らい50キロを超える水上の旅。
今では想像できませんが、当時の川というのはダムもないので豊かな水量をたたえていたのでしょうか。

重い、多い荷物を運ぶには船を浮かべるのが陸路を運ぶより楽です。
先ほどのゴブレットもここを通って一乗谷まではこばれたのかもしれません。

下城戸の外、足羽川に沿ったところに京でも名の知られた安波賀(あばか)という集落があり、専門の交易集団が活躍していたようです。

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充実した見学施設を回るのに1日じゃ足りないかも・・

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この一乗谷朝倉氏遺跡は谷の中心辺りに駐車場と見学施設があり、資料の展示スペースやトイレ、自動販売機などもあります。

一乗谷全体を見学するにはかなりの時間がかかり、また長い距離を歩くことになります。ここを拠点にして、いくつかのエリアにわけて見学することをお勧めします。