金沢城を築いたのは前田利家。
信長に仕えたころは「槍の又左」、豊臣の時代は五大老そして秀頼の傅役(もりやく)として大坂城の実質的主(あるじ)となるなど、非常に力のある人物でした。
江戸時代になると前田家は加賀と越中・能登を合わせた「日本で一番大きな大名家」に。
「加賀百万石」ですね。
そんな前田家の居城「金沢城」なので、とにかくあちこち凝っています。
屋根は白く輝く鉛の瓦。櫓や塀は独特のデザインが美しい海鼠塀で統一。
ずっと見ていても飽きなそうな金沢城ですが、意外とヘンテコな部分もあるんです。
今回は城の「外側」を回って金沢城がどの様な城だったのか、全体的に見てみようと思います。
地図で金沢城を見る
まずは地図で位置を確認します。左上が金沢駅。
そこから繁華街を南東方向に抜けた先に金沢城があります。
現在は公園として整備されています。
堀の跡が地図でも確認できます。
さらにその先にあるのが日本三名園のひとつとして名高い兼六園。
金沢駅、金沢城、兼六園はほぼまっすぐな位置にあるんですね。
金沢城の周りを流れる川は二本あり、北を浅野川、南を犀川といいます。
浅野川は穏やかな流れ、犀川(さいがわ)はたびたび氾濫を起こす強い流れ。
それぞれ「おんな川」「おとこ川」と呼ばれます。
金沢城の縄張りも見てみましょう。本丸は南にありその北に二の丸三ノ丸を配置。
外側に新丸を設けています。
ここに城の正面大手があり、その先に城下町が広がっていました。
他には西側に前田家三代利常が造った庭園、さらにその外側に現在尾山神社となっている出丸などがひろがっていました。
さて、こうして見てみるとちょっとヘンテコなところがありますね。
そう、城で一番大切とされる本丸がやたら端の方にあるんです。
金沢城の北と南には川が流れていますが城からの距離は遠く、直接本丸を守るのには役に立たなそうです。
いったいどうなっているのでしょうか。
金沢城本丸はとんでもなく高い石垣で守られている
本丸の西側にやってきました。いもり堀があります。
金沢城のまわりにあった堀はあちこちで埋め立てられしまったのですが、ここは現代になって掘り返されました。
そしていもり堀の向こうにあるのが本丸ですが、なんだかやたら高い場所にありますね。
そして立派な石垣が見えます(積みなおされたもの)。
実は金沢城の本丸は、標高50mを超える高い場所にあったのです。
現地案内看板によるといもり堀から本丸辰巳櫓台(たつみやぐら)までの高低差は約30m。
これは日本一高い徳川大坂城の石垣の高さに匹敵します。
そうなるとこちら側から本丸に攻め込むことはなかなか難しそうですね。
金沢城周辺の地形図を見てみましょう。
金沢の街に向かって南東から北西に高くなっている場所があります。
これが小立野(こだつの)台地です。
台地を挟んで浅野川、犀川がありますが、この二つの川が交わることなく流れているのは真ん中に台地があったからなんですね。
金沢城はこの台地がストンと終わるあたりに築かれていました。
本丸があるのは台地の端だったのです。
この城の縄張りに携わったのは、当時前田家に預けられていたキリシタン大名高山右近です。
右近は先進的な築城知識を持っており、地形を巧みに利用して曲輪を配置していたんです。
利家はもともと寺だった尾山城を改修し、現在のような金沢城を築いていったのです。
街道を城を迂回するように通し、ここを中心に町屋を造成。浅野川と犀川を天然の外堀とし渡る地点を二箇所(犀川大橋、浅野川大橋)にしぼります。
こうして開かれたのが金沢。ここは台地の裾に広がる街だったんですね。
台地を断ち切る巨大な堀があった
金沢城の縄張りでもう一つ気になる部分があります。
それは小立野(こだつの)台地が続く部分の防御。
城の周りは川と台地によって守られてたことはわかりましたが、こちらの方向には敵の進軍を遮るものはありません。
そこはいったいどうなっていたのでしょうか。
本丸の南側にある道路にやってきました。
ゆるやかな登り坂から下り坂になっています。
それにしても台地の真ん中にこんな谷のような道があるのはちょっと不自然ですね。
実はここは人工の谷で、金沢城に続く台地を南から断ち切っていた場所なのです。
掘られたのは一向宗の寺のときでしょうか、それとも以前の城主佐久間盛政のころでしょうか。
この場所はいわば金沢城最大の弱点。
ここが城とつながっていると台地の上を伝って攻め込まれてしまいます。
城として機能するために絶対に必要な部分なので、かなり早い時期に台地を断ち切る工事が行われたと思われます。
そして信じられないかもしれませんが、以前はここに百間堀という水をたたえた堀があったのです。
その大きさは長さ約270m、幅約68mという城内最大クラス。
ここから見える金沢城と兼六園の間は、かつての堀の跡。
金沢城の裏側の入口だった石川門ですが、当時は石垣の下まで水が来ていたんですね。
どうやらこの堀は明治時代までは残っていたようですが、金沢城は陸軍の敷地や大学として使われており、時代に合わせて周辺も開発されたのでしょう。
石川門と兼六園をつなぐ橋の下は、金沢城防御の要だったのです。
「惣構」が守る人工10万の巨大都市
加賀百万石の前田家は、常に幕府に目を付けられていました。
二代藩主利長のとき、もしかすると徳川と戦になるかもしれないと築いたのが内側の惣構。
そして11年後に三代利常がもうひとつ外側に惣構を築き、城と城下町をすっぽり囲む強固な防御態勢が完成します。
今も残る古い町並み。藩公認だった「ひがし茶屋街」です。ここは金沢の外堀だった浅野川を超えた場所。
町は四方にどんどん広がり幕末に人口は約10万人にも達します。
これは江戸、京都、大坂に次ぐ規模だったと言われています。
金沢の発展の基礎となった前田家の城づくり。そこには地形を巧みに生かす知恵があったんですね。