第二次高天神城の戦い「六砦」の痕跡で知る徳川家康の壮大な包囲網

1574年5月。甲斐の戦国大名武田勝頼は、万を超える大軍で遠江高天神城を包囲。

比較的傾斜のゆるい、赤根ヶ谷(あかねがや)から攻めかけ、西の丸を落とします。

城の半分を失った徳川軍は、城兵の命を助けてもらうことを条件に降伏。

高天神城は、武田のものとなりました。

歴史好きな方なら高天神城の名は、一度は聞いたことがあると思います。

武田と徳川が何度も争った城として有名です。


この城の周りには、家康が築いたと言われるたくさんの砦の跡が残っています。


各砦には物資の集積、街道封鎖など、それぞれの目的があって、調べてみると「面白い」です。

中には、そのあたりの城より、よっぽど大きな砦もありました。


これら砦の遺構はとても貴重。なぜなら、この時期に家康が「どのようなことを考えていたのか」を知ることができるからです。


家康にとって高天神城は、絶対に奪い返さなければならない城。どのような作戦を考えたのか、探ってみたいと思います。

戦えない?家康の作戦とは?


家康にとって高天神城を取り戻すのは、簡単なことではありません。


なぜなら、この城の守りが、とても堅かったからです。

高天神城は、標高132mの山の上に築かれた城。

峰は複雑に入り組み、かつ、切り立っています。

周囲は田んぼや湿地で、簡単に近づくことはできません。

城の内部は東と西に分かれる「一城別郭」のつくり(一つの城の中に二つの異なる構造を持った城郭がある)。

守りの堅さとその存在感から「高天神を制する者は遠州を制す」と言われていました。


実際に城の跡を見てみると、山上にはいくつもの曲輪があり、特に西側はしっかり土塁と堀が巡らされています。

これは武田勝頼が造らせたもの。

勝頼はこの城を攻め落とした経験から、西側の守りが弱いことに気づいたのです。

この改修により、もともと堅城だった高天神城は、さらに隙の無い状態に。

これでは家康が気軽に攻めることはできませんね。


また、家康は勝頼の援軍とできるだけ遭遇しないように高天神城を攻めなければなりませんでした。

それは武田本隊と正面から戦えるような実力が、このころの家康には無かったからです。

もし大規模な合戦となれば、三方ヶ原のときのように、大敗する危険性がありました。


武田本隊と戦わないように、遠州一守りの堅い城を落とす。


家康はこの後なんと5年以上の歳月をかけて、高天神城を取り戻していくことになるのです。

長篠でチャンス到来?でも「まだ攻めない」家康の考えとは?

契機となったのは、落城から1年後に起こった長篠の戦い。

武田勝頼は織田・徳川連合軍と戦って敗れ、多くの兵と重臣を失います。

また、その後武田家は、越後上杉家の家督争いを境に、相模の北条家と敵対。

勝頼は、少なくなった兵力を複数の方面に振り分けなければならなくなりました。


家康は、この機会に武田方の諏訪原城を落とします。

諏訪原城は勝頼が遠江攻略の拠点として築いたもの。

これを奪ったことにより、武田軍は長期間遠江に滞在することができなくなりました。

家康から見れば、まずは、武田本隊が手を出しにくい状況をつくるのに成功したということです。


しかし、家康はまだ高天神城を攻撃しません。

水を使って高天神城に近づく?


高天神城から西に約10キロ離れた場所。

田んぼに囲まれた森のようなものが馬伏塚城(まむしづかじょう)の跡です。

本丸跡には神社があり、この部分だけ高くなっていることがわかります。

周りは平らな土地。

案内看板によると、細長い島のような城だったようです。


実は家康は、高天神城を奪われた直後から(1574年8月1日から)家臣に命じてこの城を改修させていました。

また、それだけではなく、付近の岡崎の城山、横須賀城(1578年)なども続けて整備しているのです。


これらは高天神城からちょっと離れた場所にある城。

いったい家康は何を考えていたのでしょうか。


実は、当時、小笠山南西には湿地や潟湖(せきこ)が広がっていました。


そういえば、馬伏塚城のまわりは現在でも田んぼだらけでしたね。

あそこが昔は、湖だったということです。


地形図で見るとよくわかります。おそらくこの低い部分のほとんどが湖。

そして家康が整備させた城が水に面していることがわかります。


家康の目的は水運。

この湖は先で海につながり、少し東へ船を進ませれば高天神城の南へ回り込むことができます。

家康は、小舟で往来できる水上交通網を利用して、兵士や物資を送り込むルートを造っていたのです。

そして、馬伏塚城はこの低湿地の一番奥に位置する輸送拠点だったのです。

家康の本陣はとんでもない山の中?


家康は、別の方向からも高天神城に攻め入る計画を立てていました。

その中心となったのが小笠山砦です。


掛川の街の南にそびえる小笠山。

山頂付近にある小笠神社は、遠州熊野三山のひとつに数えられています(702年創建)。


神社の裏からハイキングコースを少し進んだところにあるのが、小笠山砦の跡。

わずかに説明看板があるだけであまり手が付けられていない状態。

それだけに、当時の遺構がよく残っています。


この砦の跡を訪れて驚くのはその規模!

家康が本陣を置いたと伝わる笹ヶ峰御殿を中心に、なんと東西500mの範囲が砦の範囲。

これはあの天空の城よりも広いことになります。


現地を訪れてすぐに感じた疑問。

それは・・

なぜ家康はこんな山の中に本陣を置いたのか?


敵の攻撃を防ぐのであれば高い山の上にある砦は有利です。

しかし、家康は高天神城を攻める側。

ここに砦を築くメリットはあったのでしょうか。


小笠神社から南に目を向けると、海が見えます。

そして、その手前にある山の先端が高天神城です。

かなり小さいですが、何か動きがあればわかりそうな距離。

小笠山砦は、高天神城を遠くから監視できる位置にあったんですね。

実は家康、この砦を使うのは初めてではありません。

以前、掛川城に籠る今川氏真を攻めるときに(1568年)も使っていました。


砦の北側にある壁のような土塁の上に登ってみます。

すると確かに掛川の街がよく見えますね。

氏真との戦いでは徳川本陣は別の場所に設けられていたようなのですが、家康は家臣から小笠山砦からの眺めの良さを聞いていたのでしょう。

想像以上!桁違いの防御力「小笠山砦」

家康が本陣を置いたと言われる笹ヶ峰御殿

家康が小笠山の砦の改修にかなり力を入れています。


砦の中心部に向かう登り坂。

右に目を向けると道のようなものがあります。

入ってみると木が通せんぼしていて、これ以上進むのはやめようかなって気になります。

先を覗いてみると、左にカーブしてずっと続いているようですね。

これは横堀の跡。

家康は重要な曲輪のまわりに堀を設けていたのです。

これはそれまでの徳川の城には見られなかった造りだと言われています。

家康は武田との戦いを通して、その築城術を学び取り入れていったのでしょう。

ちなみに小笠山砦が改修された1577年の時点でその傾向が見られるのは謎!とのこと。

この砦は、当時の徳川にとってかなり革新的なつくりをしていたようです。


さらに面白いものが。


現地にある説明看板をよ~く見てみると、手書きの文字で「馬出し」とありますね。

この看板に直接描きこまれたものなのか、それとも図を作成するときに手書きで加えられたものなのか、誰が書いたのかはわかりません。

そして、正しいかどうかも私には判断できません。


これをみつけた時点で、私にはこの丸い部分が馬出にしか見えなくなりました。

現地を見てみると、確かに馬出のような形の空間があり、周囲には土塁と堀が確認できます。

この馬出のある位置は、二つの尾根からの道が交差するところ。

砦の中心部を西側から守っているように見えます。

神社の鳥居のある場所あたりに出入口があったのでしょうか。

頭上には土塁があり、上からの援護射撃を受けることができそうです。

一時的な戦いに使う砦としてはかなり手が込んだ造りですね。


また、歩いて感じるのは、崖の多さ。

これはこの付近でみられる地形(小笠礫層)の特徴で、大井川が運んだ堆積物が隆起し浸食されたものです。

ほとんどの崖は垂直となっており、絶対にこの方向から攻め込むのは不可能ですね。

そして、それ以外の主要な曲輪の外側に堀を設けているのがわかります。

家康は、小笠山砦を高天神城にも劣らない鉄壁の砦としていたのです。

「高天神六砦」とはいったい何か?


家康が高天神城をとりもどすためにとった作戦は、城砦(じょうさい)群による包囲。

周りにいくつもの砦を築き、城を孤立させてしまおうというものです。


といっても簡単なことではなく、武田軍がいない隙に砦をサッと築き、戻ってくる気配があればすぐさま退却、これを地道に繰り返すというもの(諸説あります)。

武田本隊との戦いだけは絶対に避けたい家康には、この方法しかなかったのでしょう。


家康が高天神城の周りに築いた砦の数はなんと20箇所以上。

その中で包囲網を代表するのが高天神六砦です。

六砦は互いに連携し、髙天神城を監視するとともに、武田軍による兵糧・物資補給の遮断を行ってきました。

六砦の中には現在でも面白い遺構が残るものがあります。

武田の補給路を遮断した「獅子ヶ鼻砦」

獅子ヶ鼻砦(ししがはなとりで)の跡。

高天神城の東約3キロの位置にある標高40m程の丘です。

見学ルートの階段はかなりきついのですが、頑張れば5分ほどで山頂に出ます。

主郭から木々の間を覗くと、高天神城が見えます。

ここから城の動きを監視していたのでしょう。

砦内には段々になった小さな曲輪が沢山あり、徳川軍の兵士たちが駐屯していたと思われます。

駿河方面から高天神城に物資を運び込むためには、この砦付近を通らなければなりませんでした。

獅子ヶ鼻砦(ししがはな)の役割は、武田軍の補給ルートの寸断だったと考えられています。

戦国の物流センター「中村砦」


中村砦は高天神城の南東約3キロの位置にある砦。

見学ルートは当時の堀切の間を通って丘の上に登るようになっています。

その先の高い場所は物見台。そして、東にある谷のような部分が広く平らに整備されていますね。

これは一体何なのでしょうか。

正面の小山が中村砦跡


中村砦があった場所を少し遠くから見ています。

周りは田んぼだらけですね。

実はこのあたりには菊川の入江がありました。

中村砦はその入り江に面した位置にあったのです。

これでつながりましたね!

中村砦は横須賀城や馬伏塚城から始まる水運ルートの終点だったのです。

中村砦の谷のような曲輪は、倉庫のような役割を果たしていたのでしょう。


また、中村砦と高天神城の間は低いですが山で隔てられています。

徳川軍は武田軍に邪魔されることなく、船を使って多くの兵士や兵糧を砦に運び入れることができたのです。


こうして家康による高天神城包囲網が完成します。

完成した包囲網、しかし家康が総攻撃しない本当の理由とは?



ついに家康は、高天神城のまわりに5000の兵を配置します。

各砦の間の通路には柵が設置され、1間(2m弱)ごとに兵士をズラッと並ばせました。

また高天神城周辺の田畑を荒らし、城兵が食糧を調達できないようにしました。

徳川軍の包囲により、武田軍の陸上補給路、海上補給路は完全に遮断されました。

高天神城の兵糧・弾薬は少なくなる一方。さらに、城から脱出することも出来なくなりました。


目の前に砦が次々とつくられるのを目の当たりにした高天神城の城兵。

自分たちの兵糧は尽き欠けているのに、徳川の陣から炊煙(すいえん)が上がるのを見て心を曇らせたことでしょう。

本国甲斐からの援軍が現れる様子も無く、戦意は落ちていくばかりでした。


高天神城の城将岡部元信は、ついに徳川軍に降伏することを決めます。

しかし、その願いは許されませんでした。

家康は高天神城の降伏を認めなかったのです。

その理由について、家康の背後にいる織田信長の考えがあったと言われています。

信長は武田勝頼が多方面に敵を抱え、高天神城に援軍を送れない状況にあることを知っていました。

このまま高天神城が落ちれば、見殺しにした勝頼の名声は一気に低下することでしょう。

諸将の信頼は揺らぎ、武田家を内部から崩壊させることができるのです。

そのため、信長はこの城での戦いがもっともっと長引くことを願っていたのでしょう。

そして、どうにもならなくなった勝頼が遠江に出陣してくれば、正面から戦って撃破する自信もあったのでしょう。


1581年3月22日。

万策尽きた高天神城の城兵たちは、武田領への脱出を試みます。

全軍で、徳川軍の包囲網への突撃を行ったのです。

この戦いは壮絶で、多くの屍で堀が埋まったとされます。

城主岡部元信も討死。

高天神城の城兵たちのほとんどが、戦場の露となって消えたのです。

高天神城落城後1年で武田家滅亡


高天神城落城は武田家の運命を大きく変えました。

この後、多くの武田の重臣たちが勝頼から離反。

そしてわずか1年後には、甲斐・信濃になだれ込んだ織田・徳川の軍によって武田家は滅ぼされてしまうのです。

信長が考えていた「恐ろしいこと」が、現実になったのです。


遠江での戦いが終わった後、高天神城と周りの砦は使われなくなりました。

戦いのためだけに存在した城砦群はその役割を終えたのです。

家康はやがて駿府に本拠を移し、東海の太守として、新しい時代を造っていくことになるのです。