「武田の傑作」と呼ばれる古宮城

愛知県新城(しんしろ)市の山奥。
のどかな田んぼに囲まれた小さな山に古宮城の跡があります。
有名な長篠の戦いが行われた場所の北西ですね。

この城は、戦国時代(1571) 武田信玄の命令によって築かれたと言われています。
今回、どうして私が山の中にあるそれほど有名でもないこの城を紹介しようと思ったか。
実はこの古宮城は城好き歴史好きな方に一目を置かれているスゴイ城なのです。

私が思う古宮城のすごいところはふたつ。

ひとつめは縄張りの巧みさ。この城を築くとき、どのような形にしようかというプランを決める「縄張り」を行ったのは武田家臣のなかでも築城名人と呼ばれる馬場信春『三河国二葉松』所説あり)。

甲斐を中心に周辺各国に勢力を拡げた武田家には独自の築城術があったようで(武田流築城術:江戸時代)、それによって築かれた古宮城の出来がかなり良いらしく、「武田氏の(城の)傑作」と言われているのです。

古宮城のすごいところのふたつ目は、この城の遺構が破壊されず現在まで残っているということ。

私たちが見学している城が機能していたのは400年以上も前のこと。
長い年月の間に住宅が建てられたり道路が通されたりなど、当時の様子がよくわからなくなっていることも多いのです。これは仕方のないことですね。

でも古宮城は、城跡の南に神社が建てられただけで他の部分の開発はほぼ行われず、山林として現在までそのままの状態で残っているのです。
戦国時代の城の様子を知ることができる貴重な存在ですよね。

建物は一切ない土の城ですが、「城好き」として一度は訪れてみたい場所。古宮城を紹介します。

古宮城は愛知県北東部の山の中、作手(つくで)盆地の中央部にあります。ここは盆地を南北に貫く作手街道と伊那街道に接続する街道が分岐する場所で、山間部にありながら交通の要衝と言えます。

車では新東名新城ICから山越えをして1時間くらいかかるちょっと遠い場所なのですが、ここは武田家にとって信濃から三河に通じる重要なルートのひとつでした。

古宮城は徳川家康の領地である東三河に進出するための拠点で、武田信玄もこの城で徳川軍とどう戦うか、いろいろ思案したのでしょうか。

しかし信玄の死後、跡を継いだ勝頼が長篠の戦い(1575)で敗れると古宮城は使われなくなり、廃城になったと言われています。
この城が実際に使われたのは4~5年、そうだとしたらかなり短い期間だけ存在した城ということですね。

ただ、古宮城は武田家が撤退した後に家康が改修して使った可能性もあると言われており、小牧長久手の戦いで家康が陣城として整備した小牧山城と似ている点もあるそうです。

古宮城は比高30mほどの山(丘?)の上に築かれています。
このあたりは盆地の中でも最も低い場所で、現在は排水され田んぼになっていますが、城があった当時は湿地帯が広がっていたのだと思われます。

城の西側には作手街道を挟んで山が続いており、そこには別の城(塞ノ神城)がありました。
地形的に見ると古宮城に湿地帯から近づくのは大変だったと思われ、攻撃するなら高さがあり街道が通る西側からと考えられます。

そのため、古宮城の西側部分は迷路のような土塁と空堀が配置され、敵兵を防ぐ造りになっていますので、ここが見どころです。
では行ってみましょう。

古宮城の入り口は、(白鳥)神社の横にあります。
駐車場は神社の近く、山の南東部分に数台停めることができるスペースがあるのでそこを利用しました。
多分他に駐車する人は誰もいないと思います。
神社の入口に古宮城の説明看板があるので、絶対に見ておきましょう。



古宮城の跡は全体に木が生い茂り、ちょっと暗い空間です。
400年以上前からそのままとはいえ、高い場所の土は崩れ、低い場所は埋まっていきます。
一般的に空堀というのは人の背丈くらい土砂が堆積しているそうで、ちょっと暗めな現地で小さな起伏を見ても私のような素人にはなんだかわからない可能性が高いからです。



古宮城がどのような形をしていたのか、全体像をつかんでおきましょう。

古宮城は250メートル×200メートルほどの山全体を利用しています。

真ん中あたりで山を南北方向に分断する巨大な堀切があり、城は東と西に分かれています。

古宮城に敵が攻めてくるのはおそらく西からなので、西部分は迷路のようなつくりになっています。
東部分には館などがあったと思われ、広くシンプルな造りです。
西部分で敵を迷わせそれを東部分から攻撃する作戦のように思えます。

城の入口である神社があるのは東部分です。見学ルートは東部分から西部分に向かうようになっているのですが、個人的には攻め手の視点で見た方がこの城のことがわかりやすいかなと思いましたので、いったん城の西部分の端に移動して見学しました。城の西の端。古宮城の正面入り口で大手口と呼ばれています。

ここから城の中心方向へどのようなルートで入るようになっていたのかよくわかりませんが、散策ルートに合わせて通りやすいように歩いていきます。

道は空堀の底、谷のような部分に続いています。

谷のような部分を歩かされているというのは、上からずっと監視されているということですよね。
そして長槍や弓、鉄砲などでバンバン攻撃されるのです。

これらの攻撃をかわそうとしても谷なので動けるスペースは限られ、また周りに兵士がたくさんいればほぼ身動きできないでしょう。

攻め手はこのような恐ろしい道をずっと歩かなければならないし、しかもどうやら道は山を北側に迂回するようにつくられているようで、移動距離もやたら長いのです。

別ルートで城の中心に向かうことができたかもしれませんが、西部分には馬出のような空間があり、ここで守備兵が待ち構えていたはずです。

攻撃をかわして他の空堀に迷い込めば、もはやどこにいるのかわからなくなってしまうような迷路になっています。
この渦のような土塁と空堀は、現地に行くとその迫力がよくわかりますので是非見てください。



山の下の道をさらに進むと、城の北側で巨大な空堀に当たります。
これが古宮城を東西にわける巨大空堀で、山の上から下まで続き敵兵の進路を断ち切っています。

攻め手はここで向きを変え、坂を上って西地区の上を目指すようになります。

先程の渦のような空堀を横に見ながら進むと平坦地に出ます。
ここが西地区の頂上で曲輪の入り口。
おそらく土塁の間の狭い部分から入るようになっていたと思われ、外側は敵を狭い空間に誘い込んで攻撃できる桝形のような造りだったのでしょう。

西曲輪の周りは分厚い土塁で囲まれており、その外側は急斜面となって横堀へ落ちていきます。
攻め手がここにたどり着く頃には、相当な被害が出ているのだとうと思いますね。
西曲輪の真ん中には土塁があり、それぞれ分けられたスペースには別々の役割があったのでしょう。

西曲輪を最高地とする西地区から東地区に行く方法はただ一つ、巨大空堀の間にある土橋を渡ること。
この橋はそのまま東地区の最高所に続き、主郭と呼ばれる城の中心に至ります。

主郭の入り口は両袖枡形虎口で守られており、その形は現在でもよくわかります。
この両袖桝形というのは武田氏がよく使う防御施設だそうで、武田氏最後の居城となった新府城でも見られます。

主郭は最も広い空間。西曲輪と同じように真ん中に土塁があります。
このあたりには城主の館があったのでしょうか。
もしかすると武田信玄や勝頼がこの城を利用したときはここにいたのかもしれません。



古宮城のすごいとことろは、この主郭から空堀を隔てた西地区の様子がしっかり見えること。
それは西地区より東地区主郭の方が高い場所にあるからです。このあたりの造りはさすが「傑作」ですね。

ここからは巨大空堀の向こうを這いあがってくる敵兵の様子がよくわかったのでしょう。
先ほどの桝形に入り西曲輪の入口を攻撃する敵兵に対しここから弓などで側面攻撃すれば、敵兵は防ぎきれないでしょう。

さらに主郭の南側、巨大空堀を渡る土橋の側には櫓があったようで、ここからは西曲輪と土橋、主郭入口まで全部見下ろすことができ、敵兵を上から横から攻撃することができます。

最終的にここをしっかり防御していれば、効率的に城を守ることができますね。西曲輪は東地区入口に設けられた敵部隊を迎え撃つ馬出の役割もあったと言えそうです。  

古宮城のすごさはお判りいただけたでしょうか。
大して高低差もない小さな山に、よくぞここまで複雑な城を造ったなと感心してしまいます。

また、空堀や土塁も私が見てもわかるくらいしっかり残っています。
古宮城にはこれらの遺構に誘われて何時間も山の中をウロウロさまよってしまう魅力があるのです。

古宮城は武田氏の築城技術が生かされた城なのですが、本格的な発掘調査は行われておらず、本当はどうだったのか実はよくわかっていません。

武田氏が得意とした丸馬出や横堀をたくさん使った静岡県の諏訪原城が、実は徳川家康が改修したものだとわかったのは発掘調査の結果から。

家康は武田氏との戦いを通してその築城術を自分の城に取り入れたと考えられており、徳川の城づくりと武田の城づくりには共通点があるかもしれません。
もしかするとこの古宮城も、武田が撤退した後、家康が改修したのかもしれませんね。なぞは尽きません。

古宮城は武田と徳川による「傑作」なのです。