今回はもし「伊那大島城で戦いが行われていたら」を考えてみます。
これは実際には行われなかった城での戦いについて、真面目かつ強引勝手に考察したものです。
細かな時代背景や武将の都合は無視。史実とは大いに異なることはご了承ください。
考察におけるポイントは次の3点
① 攻撃側の兵力は守備側の3倍とする ② 守備側はできるだけ最後まで戦う ③ 開始から10日後に守備側援軍が参戦する
です。
また、戦いの流れによっては強引な展開もアリです。
織田信忠 対 武田信廉の戦い
1日目 布陣
伊那大島城主武田信廉(のぶかど)は1000の兵で籠城。
これに対し織田信忠率いる3000人の兵が大島城を包囲します。
信忠は城の西側に本陣を置きここにほとんどの兵を集中させます。
大島城の周り、特に東側は天竜川と崖によって守られており、この方向からは攻撃できないからです。
武田信廉も織田軍が西から攻めてくることを想定し、大手方向に兵を集中させたのでしょう。
こうして両軍合わせて4000の兵による激しい戦いが伊那の谷で始まります。
2日目 大手馬出の前に織田軍苦戦
織田軍が攻撃開始。目標は大島城の正面入口である大手です。
大手の前には広いスペースがあり、織田軍は兵を展開していろいろな方向から攻撃を仕掛けることができました。
信忠は「それほど時間もかからず攻略できるだろう」と考えていたのでしょうが、意外と守りは固く織田軍の兵士は次々と倒れていきます。
実は大島城の大手には丸く大きな馬出が設けられていました。
この馬出がとても邪魔で、大手門を攻撃することができないのです。馬出に入るには左右の細い橋を渡るしかなく、そこ進む兵は城内の武田軍に狙い撃ちされます。
3倍の兵を誇る織田軍ですが戦いは思うように進まず、馬出での攻防に参加できず遠くから眺める兵も多くいたのでしょう。
3日目 馬出バトルで織田軍に変化
なかなか突破できない大手馬出。
焦りを感じた織田信忠は、さらなる「力攻め」を命じます。
犠牲を覚悟で、強引に落としてしまおうということです。
身のこなしが軽く素早い動きができる兵士が選ばれ、馬出を囲む空堀に飛び込んでいきます。
ところがここで大島城の恐ろしい仕掛けが発動。
実は馬出を囲む空堀は二重構造で、深い堀の中から這い上がった後にもう一度降りてまた這い上がらなければならないようになっていました。
いくら身のこなしが軽い兵士とはいえ鎧を着たまま動きまわるのは大変。頭を出せば狙い撃ちされてしまいます。
堀底で動けなくなる兵、這い上がったところを討たれる兵。
織田軍はここでも大きな被害を出すことになります。
さらに攻撃に勢いのなくなった織田軍に対し、城内の武田軍は弓や鉄砲で攻撃を開始。
馬出を囲んでいた兵にも被害が出始めます。
このため織田軍は自然と後ろに下がっていくのですが、これが武田軍反撃のきっかけとなります。
4日目 武田信廉 奇襲
織田軍は引き続き攻撃を仕掛けます。
しかしなかなか落とせない織田の兵士たちは、馬出からの攻撃が届きにくい北側のエリアに移動してきました。
この様子を見ていたのが武田信廉。
密かに100名の兵を集め奇襲を仕掛けます。
実は大島城正面の大手馬出は、台地の中心からやや南に設けられており、馬出からの攻撃を嫌った攻撃兵が自然と北側に集まる仕掛けになっていました。
そこを隠された別の通路から奇襲すれば、大打撃を与えることができます。
横から奇襲された織田軍は大混乱に陥ったことでしょう。
一体どこから武田の兵が湧いてきたのか。早くも援軍が到着したのか。
状況もよくわからず味方が次々と討たれるのを見て織田の兵は後退。
武田軍は大島城正面の包囲の一部を崩すことに成功します。
しかし、武田の奇襲部隊はわずか100名。
さすがに織田軍を追い払うことはできず、やがて多勢による反撃を受けて城内に戻ることになったのでしょう。
5日目 水の手をねらう
ここにきて大島城の守りが固いことを思い知った織田信忠。
別の攻略方法を考えます。そこで行われたであろう作戦は水の手を断つこと。
台地上にある大島城には井戸はなく、きっと東の天竜川から水をくみ上げていると読んだはずです。
信忠は偵察部隊を派遣して大島城の周りを探らせます。
すると城の一番奥のほう、本丸の北側の低い場所に井戸があることがわかりました。
そこなら簡単に占領できるはずと早速兵を出して攻撃を開始します。
しかし大島城の井戸曲輪は周りを高い土塁で囲んであり、守りの固い造りになっていました。
ここを攻撃した織田の兵は上から監視する腰曲輪の兵に早くから発見され、土塁を超えることもできず撤退することになったのでしょう。
こうして大島城の水の手を断つ作戦も失敗。織田信忠の大島城攻略は、その守りの固さの前に難しいものになっていきます。
6日目 力攻めで大手・三ノ丸を突破
井戸曲輪への攻撃を受けた武田信廉は、城の周りのあちこちに織田の兵が展開していることを知ります。
このまま大手の防御に徹しても、数に勝る織田軍が兵を迂回させて攻撃してくれば城の中心が危うくなる。
そのため、どこかのタイミングで大手・三ノ丸に集中させていた兵の一部を城の北側・南側にも移動させなければなりません。
相変わらず大手馬出突破に苦戦する織田軍ですが、城内からの反撃の変化に気づきます。
どうやら三ノ丸を守る兵の数が減っているようだと。報告を受けた信忠はもう一度馬出への攻撃強化を命じます。
これによって再び織田の大軍が大手馬出に殺到。
二重の堀を越え土塁を駆け上がります。以前奇襲を受けた北側の入口へも兵を向かわせます。
これまでよく守ってきた武田の兵たちですが、このあたりで馬出と大手から撤退します。
長く続く戦いの疲れも出てくるのでしょう。
織田軍は三の丸を占拠し、ついに城内に入ることに成功します。
7日目 多重防御
大手を破られた大島城ですが、まだまだ戦うことができたと考えられます。
兵士の数は減ったのでしょうが、戦線が後退すれば守備範囲も狭くなります。
さらに大島城には三ノ丸を失ってもなお戦いを続けることができる防御態勢が整っていました。
三ノ丸を占領した織田軍の前に現れたのが深い空堀。
これを越えて二ノ丸に進まなければなりません。
二ノ丸との間には今度は三角形の馬出が待ち構えており、一本だけある細い土橋からしか入れないようになっていました。
織田軍は再び犠牲を覚悟で三角馬出に攻撃を仕掛けるしかありません。
8日目 二ノ丸まで占拠するも立ちはだかる巨大堀切
織田信忠はなかなか進まない三角馬出・二の丸の攻略を考え、残っている兵を展開し側面からも攻撃する作戦を開始します。
南の谷から兵を登らせ、二の丸の堀底へ進入させるのです。
しかし大島城には、この方向から攻めこまれた場合についても防御対策が抜かりなく行われていました。
二ノ丸の南側斜面には堀に囲まれた陣地があり、また本丸と二ノ丸の間には通路となる堀の入口を隠す壁が設けられていました。
ここから攻め込んだ織田の兵は、堀底に迷い込んだところを二の丸から狙われ、次々と倒れていったのでしょう。
しかし数に勝る織田軍。運よく逃れた兵はそこから本丸方向や井戸曲輪に流れていき、三角馬出を中心に行われていた戦いは二の丸の周り全体に移っていきます。
後方に敵兵が回ったことを知った二ノ丸の兵たちの中には、本丸に逃げ込む者も出てきたのでしょう。
徐々に二ノ丸の守りは薄くなり織田の兵が侵入。
このあたりから武田兵の逃亡も始まります。織田軍がついに二ノ丸まで占領します。
9日目 独立本丸
討ち取られたり逃亡したり、武田軍は100人ほどまで減り本丸に立てこもります。
もう自力で織田軍を撃退することができない武田軍は、戦い抜くかそれとも降伏するかの選択に迫られます。
しかし大島城の本丸は隣の二の丸と巨大な堀によって隔てられ、独立した造りになっていました。
普段かけられていた橋を取り払ってしまえばどこからも入ることができません。
これまで激しい戦いを続けてきた織田軍には、このまま高い崖の上にある本丸に駆け上がって攻め込むのは大変なことだったのでしょう。
織田信忠は兵を休ませ、明日一斉に攻撃することを決めます。
一方で井戸曲輪を占領させ大島城の水の手は断ちます。
武田軍の士気を落とすため、井戸曲輪が落ちたことを大声で呼びまわったのでしょう。
10日目 名将?武田信廉
本丸だけとなり水の手も断ち切られた大島城。
ここでとんでもないことが起こるかもしれません。
それは城主武田信廉の逃亡。
信廉は夜になるのを待って天竜川を渡り城外へ出る計画を立てます。
もちろん別の機会をうかがって城を取り戻すためですよ。
腹心に準備を命じた信廉ですが、昼間のうちに織田信忠が本丸への総攻撃を開始します。
信廉は残る兵を指揮して嫌々戦うことになったのでしょう。
しかしここで奇跡が。
仁科盛信率いる高遠城からの援軍が大島城の近くまでやってきたのです。
これを知った織田信忠はこのまま戦いを続けるのは不利と見て撤退を開始。
武田軍は見事大島城を守り切ったのです。
目の前の織田軍が引き返す様子を見た武田の兵士たちには、最後まで戦い抜いた武田信廉は軍神にように見えたのでしょう。
もちろん信廉はわずかな兵で大島城を守り切った名将として後世に語られることに。
逃亡の準備を命じた腹心に固く口止めしたのは当然のことです。
いかがでしたでしょうか、強引勝手に想像しました伊那大島城の戦い。
ご感想などありましたら是非コメントをいただきたいと思います。
伊那大島城跡には今回紹介した様々な遺構が残っていますので、よろしかったら足を運んでみてください。