「関東三国志」上杉謙信・武田信玄・北条氏康の本拠を一気に紹介します

戦国時代、広大な関東平野を巡って多くの大名たちが戦いを繰り広げました。

この「関東三国志」とも呼ばれる戦い。その主人公が上杉謙信、武田信玄、そして北条氏康です。

「越後の龍」上杉謙信

上杉謙信の人物像


上杉謙信は越後、現在の新潟県を支配した戦国大名です。

越後と関東は高い山によって隔てられているのですが、謙信は何度も山を越えて関東に出兵しています。その理由は「関東管領」。

上野にいた上杉憲正が相模の北条に追い詰められ、越後の謙信を頼ったことがきっかけです。


憲正から管領職を譲りうけた謙信は、関東の秩序を保つための戦いを始めたのです。領土を増やすという野心もあったのでしょうが、頼ってきた者を見捨てることができない性格だったと言われています。


謙信は戦いにとても強く、負けた話はほとんど聞きません。勝利のため毘沙門天を熱く信仰し、生涯妻も娶らなかったと言われています。

自ら毘沙門天の化身を名乗り戦に乗り込む姿は、敵兵たちから大いに恐れられたのでしょう。

その一方でなかなか戦果のあがらない戦を繰り返したことで、越後の武将たちの中には謙信の出陣命令に従わない者もいたようです。

義のために戦い勝利を重ねた謙信ですが、なんだか陰の部分も感じますね。

上杉謙信の居城「春日山城」

上杉謙信が本拠としたのが春日山城。新潟県でいえば南のほう、上越市にあります。頚城平野を見下ろす春日山全体に曲輪を配した、日本で有数の巨大山城。山頂には中心となる曲輪を置き、山麓には家臣団の屋敷が並んでいたと考えられています。

当時の建物は残っていませんが、曲輪の跡と思われる遺構があちこちにみられます。


春日山城の絵図を見ると山頂には重層の建物があり、塀で囲まれています。なんだか中国の宮殿のようですが、実際はこのような建物は無く、もっと無骨な戦国の城らしい姿をしていたのでしょう。


頂上まで登ると頚城平野、現在の上越市の景色を眺めることができます。近くには直江津の港があり、戦国時代にも船が出入りしていたのだと思われます。越後は雪国ですが、広大な平野があり海に面した豊かな土地。

後で紹介する武田信玄が、海を求めて戦いに出た気持ちがなんとなくわかります。


春日山城で絶対に見逃せないのが毘沙門堂(再建)。謙信はここに籠り、日夜戦いの神に祈りをささげたようです。篝火がたかれたお堂の中で軍神と呼ばれた武将が座っている姿が想像できますね。

謙信が大切にしたのは「泥足毘沙門天」。この像は謙信の死後も上杉家によって守られ、現在は別の場所(米沢法音寺)で保管されています。


「甲斐の虎」武田信玄

武田信玄の人物像

武田信玄は甲斐国、現在の山梨県の大名。風林火山の旗印を掲げ、信濃・上野、さらに駿河・遠江まで領国を広げました。

先ほど紹介した上杉謙信とは信濃川中島にて5度も合戦を行い、4度目の戦いで両雄が一騎打ちをしたという伝説も残っています。

決着のつかなかった川中島の戦いですが、その後信玄の領地となっているのはおもしろいですね。

信玄は戦いに強いだけでなく領国統治にもその才能を発揮しました。貧しかった甲斐の国を治水や金山開発などによって豊かにしていきます。


後に畿内で急速に力を付けた織田信長と対立。

信長の同盟者であった徳川家康を遠江三方ヶ原で破り、そのまま京に攻め上る勢いをみせました。

しかしその直後病気が悪化し死去。

信玄がもう少し長く生きていたら、どのようになっていたのか興味深いですね。

信玄がもう少し長く生きていたら、どのようになっていたのか興味深いですね。

武田信玄の本拠「躑躅ヶ崎館」

武田信玄が本拠としたのは躑躅ヶ崎館。甲府市街地の北にある武田神社がその跡地です。

名前の通り「館」。

周囲を四角く堀が囲むだけで、謙信の春日山城と比べるとかなり小規模です。

将軍家の館を真似たつくりで信玄の父の頃はなかなか立派だったようですが、時代が進みむと周りの大名たちの居城と比べ見劣りするようになっていきます。

ですが信玄は平気で住んでいました。

甲斐は山に囲まれた盆地。敵が攻めてきても有利に迎撃できる場所がたくさんあったのでしょう。

この館で敵を防ぐという考えはあまりなかったのかもしれません。


現在武田神社が建つ場所に信玄の館があったと言われています。当時は東側に大手があり、門を守る馬出が再現されています。

神社の西側に回ると別の曲輪があり、信玄の息子が住んでいましたこの曲輪の土塁の上を歩くことができるのですが、なかなかの高さ。すぐ下には堀があり、簡単には近づけないようになっています。

曲輪への南北の入口は簡単に入ることができない仕掛けがあり、よく観察してみると館とはいえなかなか堅固なつくりになっています。


武田神社の裏側に回ると石垣を使った天守台の跡が残っています。館に天守?ってちょっと不思議ですね・・。

躑躅ヶ崎館は武田家の後にここを治めた徳川家によっていろいろ手が加えられた形跡があります。

信玄の館を時代に合わせた城に改修し使おうとしたのです。

後に躑躅ヶ崎館の南に甲府城が築かれ甲斐の中心はそこに移っていくのですが、いろいろ調べると面白いものが出てきそうですね。

「相模の獅子」北条氏康

北条氏康の人物像

北条氏康は関東の大勢力北条家の三代目。北条家を関東ナンバーワンに押し上げた名将です。

氏康の合戦で有名なのは川越夜戦。

北条家の川越城が足利・上杉の大軍に囲まれ落城寸前となったとき、氏康はわずかな軍勢で夜襲をかけ見事敵を敗走させました。この戦いによって古河公方・上杉氏の力は急速に落ち、氏康は関東抗争の主導権を握ることになります。

のちに関東管領上杉憲正は越後に逃亡。これをきっかけに北条氏康と上杉謙信の戦いが始まります。

駿河を巡っては信玄とも対立。三国同盟を破った信玄に対し一歩も引かない戦いを繰り広げました。

信玄は北条の動きを封じるため関東に軍を進めますが氏康はこれに抵抗。帰国する武田軍を追って戦いを仕掛けました。


氏康のすごいところは内政手腕。領内の検地を徹底的に行い、戦いとのき準備する馬や鉄砲、人数などを決めました。これによって家臣や領民の負担が明確になりスムーズな統制がおこなわれるようになりました。また凶作や飢饉のときには年貢の免除も行ったよう。

氏康は負担軽減にも尽力する「領民想い」の大名だったのです。

北条氏康の居城「小田原城」

そんな氏康が居城としたのが小田原城。北条家5代の本拠です。

実は小田原城は上杉謙信にも武田信玄も攻めこまれたことがあり、関東三国志ではあまりみない本拠決戦の舞台です。

この二度の戦いは上杉軍も武田軍も攻めきれず撤退し、氏康は小田原城で敵の攻撃を見事防いだことになります。

なぜ氏康は謙信、そして信玄から小田原城を守ることができたのでしょうか。それは小田原城が世に稀に見る堅城だったからです。


小田原城は箱根山から続く尾根の上に築かれています。下から見上げるとかなりの高さがあり、現在でもその様子を感じることができます。

氏康の頃の小田原城の中心部はもっと山の上にありました。

絶妙な地形を生かした城だったのですね。


更に小田原城は氏康の跡を継いだ氏政・氏直の時代に外周9キロを超える惣構を持つ巨大城郭となります。この痕跡は現在でも見ることができます。

こんな巨大な堀と土塁が、小田原城と城下町をすっぽり囲んでいたのですね。

関東三国志の英雄の居城。その後は?

時には手を結び時には争った関東三国志の英雄の居城。その後はどうなったのでしょうか。

上杉家の春日山城。謙信の跡を継いだ景勝は豊臣秀吉の時代に5大老の一人となり、会津120万石の大大名となります。このとき越後には堀秀治が入りますが、古い山城である春日山城は新しい時代にふさわしくないと考えられ、やがて使われなくなります。明治になって春日山神社が建てられ、米沢の上杉神社とともに謙信を祀っています。

武田家の躑躅ヶ崎館は信玄の死後も勝頼によって武田の本拠としてしばらく使われますが、織田・徳川軍の侵攻が迫ってくると新しく築かれた新府城にその機能を移されます。このとき勝頼は、自ら館に火をかけたと伝わります。武田家滅亡後は甲府城が築かれ、甲斐の中心となりました。のちに信玄を祀る神社となり、現在は多くの観光客が訪れる名所となっています。

巨大な惣構を備えた北条家の小田原城は、天下人豊臣秀吉による大包囲によって開城し北条家の手から離れます。東海道に面し箱根を背後に控える小田原は関東を守る要所として整備され、江戸時代には石垣と天守を持つ近代的な城に生まれ変わります。3城のなかで唯一のちの時代まで相模の拠点として使われたのですね。もちろん平和な時代に合わせて規模は縮小。城の中心部も氏康時代より低い場所に移り、新たな発展の時代を迎えます。一部の建物や石垣が残っていたのですが、惜しくも取り壊されたり地震で崩れてしまいました。現在は江戸時代の様子を再現した天守や櫓・門が再建され、当時の様子を知ることができます。

どの城も関東三国志の英雄が過ごした場所。現在の姿は全然違いますが、彼らの想いを現地で感じてみてください。