今でも人を迷わす「巨大迷路」小幡城

城好きも歴史作家もイチオシの城跡


昼間でも薄暗い森の中にまるで「迷路のような道」が延々とつづいています。
これは戦国時代に造られた城の跡。茨城県にある小幡城です。

実は城好き歴史好きな方の間ではかなり有名な場所で、口コミを見てみると「究極の土の城」とか「茨城で最も素晴らしい城郭」などかなりの高評価。

城内に足を踏み入れると「同じところを歩いている気がしてくる」「方向感覚を失う」など不思議な感覚になるとのこと。どうやら「迷路っぷりがスゴイ城」のようです。

また保存状態もよく、ほぼ戦国時代のままの形で城の跡が残っているのも魅力。
「ちょっと手を加えれば明日から城として使える」という声も。こんなこと聞かされたら城好きとしては行くしかありません。

歴史作家の伊東潤さんは、小幡城を「関東で縄張りが好きな城」の一つに挙げています。遺構の保存状態、見学のしやすさ、適度なスケールから「少し強引かも」と断りつつ「中世城郭ファンが満足する理想の城」としています。
多くの城好きな方に加え歴史作家も一押しの小幡城。
その様子を紹介します。

「方向感覚が狂う?」壁に挟まれた通路

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小幡城があるのは茨城県東茨城郡茨城町。この森の中がとんでもないことになっています。

まずは入口からビックリ。城跡への道は壁に挟まれたような通路になっています。
この暗く細い道を進んでいくのですが、途中で分かれ道が出現。
予想以上の「迷路っぷり」です。
小さな案内看板があるので、それだけを頼りに進んでいきます。

それにしても掘り下げられたこの道の規模がすごいです。
道はときおりジグザグになり、まっすぐ進めないようになっています。
これもわざと遠回りさせる城のテクニックなのでしょうか。
確かに同じところをぐるぐる回っている気がしてきます。
土の壁に囲まれ見える範囲が制限されているので、方向感覚が頼りなくなっているのが自覚できます。

最終目標は城の中心「本丸」。入口から10分ほどで到着できます。
曲輪の周りをぐるっと土塁で囲む厳重なつくり。
奥に井戸の跡もあります。
きっとこのあたりには城の中心となる建物があったのでしょう。
城主が防衛戦の指揮をとった小幡城の一番大事な場所です。

一回り見てきたのですが、予想以上の「迷路っぷり」でした。
どうしてこんなに「迷路っぷりがスゴイ」のでしょうか。

小幡城の迷路は「堀底道」

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城内に張り巡らされた堀底道


先ほどまで私が歩いていた迷路のような道はいったい何なのかというと「小幡城の堀の跡」です。
お城の堀というと落ちたらダメな場所と思われがちですが、水の入っていない空堀は「堀底道」と言って通路として使われていました。
小幡城でも普段から人が歩くことを想定して設けられていたよう。
当然、戦いのときは敵兵がここからも城内に入ってくることになります。
そのため侵入してきた敵兵から城を守るいろいろな戦国テクニックが使われていました。
その巧妙さは現代の私たちさえも惑わすほどだったのです。

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城の跡に入っていくと分かれ道が出現。
右に進むかまっすぐ行くかの選択をしなければなりません。
ですが、じっくり考えている暇はありません。堀底道の上には城を守る守備兵が。ぐずぐずしていると矢が飛んでくるかもしれない。
ということで勢いに任せてどちらかの道に突っ込んでいくことになります。

この迷路ですが、右とまっすぐ、どちらがよかったかというと答えはどちらもダメ。右は六の郭の外へ、まっすぐは六の郭の内側を通って五の郭の方へ。
どちらも小幡城の中をぐるぐる回っても本丸に行くことができない「ハズレ堀底道」です。
迷っている間はずっと上から攻撃されるので、悪ければ全滅するかもしれない攻撃兵にとって「怖い道」だったのですね。

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では、正解はどこか?それは別の堀底道を進むこと。
じつは「ハズレ堀底道」の隣にもう一本堀底道があったのです。
先ほどの分かれ道にはまっすぐか右以外に左に曲がる道もあります。
ここが現在正式な見学ルートとなっているのですが、じつはこの部分は「最近?」になって開けられた通路(第二次世界大戦頃か)。
小幡城が使われていた頃にはずっと壁になっていて通れませんでした。
この「最近」の通路をくぐった先にもう一本の道、「当たり堀底道」があったのですね。

この「当たり堀底道」に入るにはどうしたらよいか。
それは現在小幡城入口となっている「ハズレ堀底道」ではなくその先にあった入口から入るしかありません。
この入口は藪に隠れてよく見えませんが、きっと当時はこのあたりにもうひとつ堀底道が口を開けていたのでしょう。

この並行する二つの堀底道は実にテクニカルな仕掛け。
小幡城の正面は西側で、そちらに大手がありました。
この方向から城への入口を探す攻撃兵が初めに見つけるのが手前の「ハズレ堀底道」。
きっとここから入っていくことになるでしょう。
そのすぐ隣を走る「当たり堀底道」の入口がなんとなく壁に隠れて見えなくなっているのが実にいやらしいですね。

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二の郭の「でっぱり」

運よく「当たり堀底道」に入ることができた攻撃兵はどうなるのでしょうか。
しばらく進むと目の前に土の壁が立ちはだかります。
これは二の郭の「でっぱり」です。
堀底道はこの「でっぱり」を迂回するように走っているのですが、右・左とムリヤリ曲がらなければなりません。
ダダっと走ってきてもここで一気にペースダウン。勢いを削がれます。
そして通過中はずっと「でっぱり」の上から監視されています。
当然弓矢などで撃たれたり何か落とされるのかもしれませんので、非常に厄介なつくりとなっているのですね。

まだまだ続く「戦国テクニック?」

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「でっぱり」を通過すると再び分かれ道が出現。ちなみに正面の上が本丸です。
このまま壁をよじ登るのは難しく、左か右どちらかにしか進むことができません。

左は正面に三の郭があり、道がまた折れ曲がっています。こちらに進むと三方向から攻撃されそうな気がします。

「比較的マシ」に見えるのが右でしょうか。しばらくは道がまっすぐつづいていて見通しはよさそうです。
もちろんここでもじっくり考えている暇はありません。
先頭の攻撃兵が立ち止まってしまうと続いてくる兵たちは先ほどの「でっぱり」のところで大渋滞。
逃げ場のない場所で止まっている兵は守備側から見れば恰好の餌食。ますます被害は大きくなることでしょう。

とりあえず「比較的マシ」に見える右に進みますが、実はこちらには小幡城独特の怖い仕掛けが。
それは右手上にある「変形武者走り」からの攻撃です。

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全然わからない変形武者走りの跡では想像力を高めるしかない

「櫓跡」という階段を登るととその様子を見ることができます。
ここは堀底道の上にある細長い場所。
ひときわ高いところには櫓が建てられていたようです。

「変形武者走り」とは土塁の上の一部分を凹ませた小幡城オリジナルの仕掛け。
藪になっていてよく見えませんが、なんとなく真ん中の地面が低くなっていているようです。

おそらくこの凹んだ部分に守備兵が隠れれば、堀底道にいる攻撃兵からは見えなかったのでしょう。
守備兵が土塁上を移動するのも楽で、密かに背後から矢を射かけるなんてこともできます。
「比較的マシ」に見える右ルートを進んだ攻撃兵は、ここで守備兵からの強力な反撃をくらうことになったのでしょう。

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さらに全体的に見てみると、この「変形武者走り」の両側に「当たり堀底道」と「ハズレ堀底道」の両方が配置されていることに気づきます。つまり攻撃兵がどちらの堀底道を進んできても、この下を通過することになるのです。
この「変形武者走り」に兵を配置しておけば準備OK。守備兵は余計な移動をする必要がなく、攻撃兵がくるのを待ち構えていればいいのです。
ということで、この「変形武者走り」は小幡城の防御の要。
櫓からの情報を基に、的確な防御作戦が展開できたのでしょう。

こんなスゴイ城を築いたのは「誰」?

堀底道に入ってきた敵兵を、分かれ道と曲がり角で惑わす「迷路っぷり」。そして隙を逃さず最高のタイミングで攻撃に移る「仕掛け」。
こんなにたくさんの戦国テクニックが詰め込まれた小幡城は、一体誰によって築かれたのでしょうか。

小幡城は寛政川(かんせいがわ)の側にある台地の先に築かれた城。
近くに古くからの街道(陸前浜街道)が通る交通の要衝でした。
鎌倉時代には城があったようですが、はっきりしたことはよくわかっていません(小田氏または大掾(だいじょう)氏による築城か)。
小幡城を現在の規模にしたのは水戸(馬場城)に拠点を置く常陸江戸氏だと言われています。
支配地の南に位置し敵の城(大掾氏の府中城(石岡市))に近かったことから、かなりの力を入れて整備されたのでしょう。

小幡城は周囲を川や湿地に囲まれており、城としてかなり「恵まれた場所」にあるように思えます。
ですが「こちらの方向からは絶対に攻め込まれないぞ」というような「高さ」がなく、江戸氏の築城担当者はどうしたらよいかあれこれ悩んだのでしょう。
その解決策として考え出されたのが堀底道を使った「巨大迷路」。
普通は「敵兵を城の中入れない」ようにするのですが、小幡城ではむしろ城内に引き入れて一気に殲滅してやろうという作戦がとられています。
その後常陸一国を支配した佐竹氏は小幡城にあまり手をくわえず、いつしか使われなくなったようです。

ということで、茨城の「究極の土の城」小幡城は、この地を支配する江戸氏の手によるもの。
「迷路っぷりがスゴイ」堀底道は足りない高さをカバーするための工夫だったのです。

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堀底道による迷路は小幡城のほんの一部です

今回は小幡城の堀底道を中心に見学しましたが、じつはこれは城のほんの一部。
本丸以外の郭は見学ルートから外れていて、立ち入ることもできません。
きっとそちらにもとんでもないテクニックが使われているのでしょうから、小幡城の魅力はまだまだあるということですね。

城好きとしては整備がすすんで見学範囲がひろがることを望んでいます。