片倉小十郎の「白石城」真田幸村の子が匿われた謎

宮城県に入ってすぐの街、白石(しろいし)。ここにあるのが白石城です。


美しくそびえるのが大櫓。実際は天守ですが、代々城主を務めた片倉家は主君伊達家に遠慮してか大櫓と呼んでいました。

もし天守と呼んだら片倉家に処罰されるかもしれません。

この美しい建物は現代(1995)になって再建されたもの。当時と同じ木造で、もちろん内部にも入ることができます。一の門と二の門も再建されており、大櫓最上階からは本丸への巧妙なルートを見ることができます。


大櫓の一階に鎧が並んでいます。左はここの城主片倉小十郎のもの、隣は伊達政宗公(「黒漆五枚胴具足」(くろうるしごまいどうぐそく))ですね。

さらに見慣れない赤いものがありますが、これはどう見ても六文銭。真田家の鎧です。

上田でも大坂でもない白石に真田の鎧。これは観光目的のためにやっちゃってくれてますね!なんて思ったのですが、実は白石と真田家にはとても深い結びつきがあったのです。

白石は戦国スーパー武将のエピソードが交わる地


大坂の陣のとき。真田幸村が討ち死にする前に、自分の子供たちを片倉の陣にひそかに送り届けたという話が伝わっています(諸説あり)。

幸村の子供たちは白石に送られ、そこで暮らすことに。後に娘は片倉重長の妻となりました。

もちろん真田と伊達の家臣である片倉は敵同士。このときもしっかり戦っていますからね。

大坂時代に真田家と片倉家の屋敷が近く交流があったという話も。

夏の陣での戦いを通して、幸村は片倉家に自分の子供たちを託すことを決めたのかもしれません。

再建された天守(大櫓)が美しい


白石城見学にはいくつかの駐車場があります。私は城の西側、野球場近くの駐車場を利用しました。

案内看板に従って歩いて行くと白石城の中心部に着きます。途中で土塁の跡かな・・と思う場所もあります。


天守(大櫓)は三層三階のスッとした形。一階に石落としが張り出しています。破風の下の装飾がカッコいいです。

この建物は1823年頃、江戸幕府でいうと第11代将軍徳川家斉(いえなり)公の時代の白石城の姿を現しているそうです。発掘調査結果に基づき、かなり忠実に再建されています。


天守最上階は高欄をめぐらし火灯窓を備えています。

江戸時代末期のものにしては古いデザインとのことです。


天守下の石垣は加工されていない石をそのまま積んだ姿をしています。間に小さな石を詰めてスキマが無いようにしていますね。

一ノ門と二ノ門に挟まれた空間は不思議なカタチをした桝形になっています。

このあたりの石垣は綺麗に加工された石が使われており、本丸入口の見た目を意識しているのでしょうか。
二の門は見る者を威圧する二階建て櫓門。白石城のこの空間において最大限に威厳を示す姿をしています。


二の門をくぐった先が本丸。180度向きを変えたところに先ほどの天守が建っています。


白石城の本丸の広大な敷地には、御殿が建っていました。

伊達の殿様が使う御成御殿(おなりごてん)、片倉家の公式の用に使う「表御殿」(おもてごてん)、殿様や奥方の日常生活空間である「奥向御殿」(おくむきごてん)の3つに分かれていました。

奥州街道を利用した政宗がこの城に寄り、景綱とこの場所で酒を酌み交わしたのかもしれませんね。

本格木造再建「大櫓」内部へ


いよいよ天守、いや大櫓に入っていきます。

入館料が必要で、一ノ門付近の発券機か歴史探訪ミュージアムで購入できます。


天守一階の外側には武者走りが巡っています。

石落としや狭間もあり頭上には太い梁。当時もこのような姿をしていたのでしょう。


三階は明るい空間。四方の扉が開け放たれています。

三階からは先ほど通ってきた門がよく見えます。

複雑な本丸への導線を城主気分でながめることができますね。

白石城天守三階には南北方向に各二か所、東西方向に各一か所火燈窓があしらわれています。この姿は古い絵図にも残っています。

白石は伊達政宗がどうしても「欲しい」城だった!

白石城は、政宗が芦名氏を破り手に入れた城です。しかし小田原征伐の後、豊臣秀吉によって取り上げられ、中央から送られてきた蒲生氏郷の領地とされてしまいます。

氏郷は白石に家臣の蒲生郷成(さとなり)を入れ、城を整備させたとのこと。

伊達領との境にあたりますので、そのあたりの強化はしっかりおこなうはずですよね。

その後、氏郷に変わって豊臣政権の五大老上杉景勝が会津に入り、白石城は上杉家のものとなりました。(家臣甘糟景継(あまかすかげつぐ)が白石城主となります。)


蒲生がいなくなったと思ったら次は上杉。東北を抑えようとする豊臣政権の大大名に対し、政宗が神経をとがらせていたのはいうまでもありません。

そんな政宗に白石城奪還のチャンスが訪れたのは1600年のこと。徳川家康による上杉討伐です。

家康は政宗に対し「軍勢は動かすな」と指示していたようですが政宗はこれを無視。すぐに白石城に攻めかけ、これを落とします。


その後、伊達家の白石領有が認められると、政宗は米沢時代からともに過ごしてきた忠臣、片倉景綱を入れます(1602年)。

景綱は政宗の近習として仕え、後に軍師的な存在となった人物。人取橋、摺上原といった主要な合戦に参加。小田原合戦のとき政宗に参陣を決意させるなど、伊達家の行く末を決めた名臣です。

内気だった若き主君政宗の飛び出した目を掻き切ったと伝わる景綱。その忠誠心は生涯変わることはなく、政宗も絶大な信頼を寄せていたのでしょう。

白石城は片倉家が代々城主を務め、幕末まで仙台藩62万石の南の関門として使われるのです

(徳川幕府による一国一城令で、伊達家では仙台城のほかに白石城が例外として存続を許されます。(陣屋・要害を除く))。

大坂の陣に景綱の子、重長出陣


政宗より10歳年上だった景綱は病を患い、大坂の陣に参加することはできませんでしたが、変わって息子の重長(重綱 徳川4代将軍家綱の諱字を避けて重長と改名)が出陣します。

慶長20年(1615年)道明寺の戦い(5月6日)


重長は騎馬鉄砲隊を率い、馬上砲火のあと硝煙(しょうえん)の中で突撃を仕掛ける戦法で大坂方に大打撃を与えます。

これに対し真田幸村は、野に伏せさせた兵士を一斉に立ち上がらせ槍を騎馬隊の眼前に突き出すことで応戦。

真田の猛反撃による被害を恐れた政宗は、退却を命じたと言われています。

決戦前夜。幸村の使者、片倉の陣に向かう

この激戦のあった夜、幸村の子大助の使者が一通の手紙を持って片倉の陣を訪れます。

手紙の内容は、幸村が残る子供たちのことを気にかけているというもの。

昼間「関東武者に男子は一人も居ない」と言い放ち悠々と退却した幸村ですが、討死を覚悟し、敵方である片倉家に子供たちを預けることを考えたのです。

「父幸村事小十郎殿(片倉景綱)へ御懇意と申す。この度の籠城とても討死と存じ候らへども、妹一人弟一人之有り候を心掛り候。父が日頃の御交り、何卒御助命の御計り給はらばやと申」


これに対し重長は「委細承知」と返事。送られてきた幸村の子供たちをすぐに保護し、白石に送ったと伝わります。


翌日、真田幸村は徳川家康の本陣に二度にわたって突撃。家康の馬印を倒します。やがて疲れ傷つき木にもたれて休んでいるところを越前松平家の兵によって討ち取られます。

白石で続く「真田の血脈」

白石城から車で10分ほどのところにある当信寺。この寺の山門は、かつての白石城二ノ丸の門でした。


この寺の奥に古い墓があります。真田幸村の娘、お梅の墓です。

お梅は大坂城から脱出した後白石で暮らし、のちに片倉重長の妻(継室)となります。重長との間に子はできませんでしたが、前妻の娘の子(景長)を養子とし、片倉家を盛り立てたと伝わります。

お梅は(1681)78歳で没しますが、生まれ故郷である西国につながる街道が近いこの地に埋葬を願ったと言われています。

白石に逃れ泰平の世を迎えたとき、お梅は父と別れた戦火の時代をどのように想ったのでしょうか。


お梅の弟は片倉家に仕え、のちに仙台真田家の祖に。

真田幸村の血は東北で受け継がれていくことになるのです。