1573年8月、一乗谷には多くの兵が集まり、出陣の準備が行われていました。ここを治める越前の戦国大名朝倉氏の軍勢です。
以前から同盟している浅井氏からの要請を受け、対立する織田信長と戦うため、近江にむけて出発するのです。
朝倉氏が越前を支配して約100年。この一乗谷まで敵兵が攻め入ることはありませんでした。
山に囲まれた一乗谷への入り口は北と南の二箇所。そこには上城戸・下城戸と呼ばれる厳重な防御施設があり、敵兵が攻めてきても町全体を守ることができるようになっています。
平和な城塞都市一乗谷は朝倉館を中心に様々な建物が並び、一万人を超える人々によって大いににぎわっていました。
朝倉氏の館や家臣の武家屋敷には大きな石と人口の池による美しい庭園があり、それを見ながら茶会などが行われていました。
通りに並ぶ店には日曜品から、どこか遠くの国から取り寄せた珍しい品まで、たくさんの物が売られていました。
山に囲まれたこの一乗谷では、当時日本の中心であった京にも引けを取らないオシャレな暮らしができたのです。
これまでも朝倉氏は織田信長と戦いを繰り広げてきましたが、戦場となったのはいずれも他国。
今回の戦いも浅井家の領国近江で行われるはずです。
ある程度睨み合えばお互い撤退し、大規模な戦いになるようには思えません。
それほど遠くない隣国まで足を運びちょっとだけ不自由な戦場での生活を我慢すれば浅井氏への顔も立ち、またこの一乗谷に戻って優雅な生活ができるはずでした。
大切な同盟者浅井氏の危機を助けるための出陣ですが、朝倉軍にはどこか他人事のような空気が流れていました。
この2万の軍勢のほとんどがこの一乗谷に帰ってくることはありませんでした。
そして平和で優雅な暮らしが営まれたこの一乗谷が、わずか半月後に炎に包まれ地上から姿を消すとは誰も思っていなかったのです。
この2万の軍勢を率いるのは朝倉義景。
朝倉氏が一乗谷に本拠を構えてから5代目の当主になります。
普段当主義景が陣頭に立って戦うことはほとんどなかったのですが、今回の出陣に当たっては、朝倉の重臣がこれまでの戦いによる兵の疲弊を訴え出陣を拒否しました。
そこで、やむなく義景が出陣することになったのです。
朝倉の家臣も戦には積極的ではなかったのでしょう。
朝倉氏が信長と戦うきっかけとなった人物。
室町幕府第15代将軍足利義昭です。
13代将軍であった兄義輝が殺害された後、義昭は各地を転々とします。
越前の朝倉氏の元に来たのは1565年。
そこから5年間一乗谷で過ごしました。
義昭が一乗谷にいたころ住んでいたと言われる館。
御所と呼ばれていました。
この御所がある場所は上城戸より南の地区、一乗谷の防御施設の外ということになります。
義昭が町の外に追いやられていたようにも見えますが、実際は一乗谷の町が発展し谷の中がぎゅうぎゅうになり、城戸を超えて町がここまで広がっていたようです。
御所の付近には美濃からやってきた齊藤竜興の館もあり、このあたりも一乗谷の中と同じように賑わっていたのだと思われます。
館づくりの御所とはいえ、そのまわりは土塁でしっかり守られており、現在でも見上げるような高さで残っているのがわかります。
敵がここまで攻めてきても御所を守ることができ、また城戸の中に撤退すればより身を守ることができたのでしょう。
しばらくここにいた義昭ですが、朝倉義景がなかなか積極的に動かないため美濃の織田信長の元に移り、その力を借りて上洛、15代将軍となります。
しかし急速に畿内に勢力を広げた信長と対立するようになり、やがて決別。武田や浅井など周りの有力大名と手を結び信長包囲網を築き上げます。
朝倉義景もこの包囲網に加わり、信長と戦うことになったのです。
近江の浅井氏は朝倉家の古くからの同盟者です。
不思議な事ですが、浅井氏の本拠小谷城には朝倉家用の砦が築かれていました。
その砦は山の中心部、当主名長政のいる本丸より高いところにあり、この城の城主がいったい誰なのかちょっとわからないですよね。浅井と朝倉は同盟者というより主従のような関係だったのかもしれません。
小谷城を包囲していた信長は、朝倉軍が到着する前に小谷城にあった朝倉氏の砦を攻撃し落としてしまいます。
暴風雨の中での奇襲だったこともあり、砦を守っていた朝倉の兵はろくに抵抗せず降伏しますが、信長はこれをわざと逃がし、朝倉義景のもとに向かわせます。
13日、砦が落ちたことを知った義景は、早くも軍をまとめて越前に戻ることを決めます。
信長に包囲され砦も落とされた浅井長政の小谷城は、もうどうにも救えないと考えたのでしょうか。
朝倉軍はわざわざ近江まで出向いただけで浅井家のために戦うわけではなく、同じ道を越前まで引き返すことになりました。
背後に一向一揆との戦いを抱えており長く越前を留守にすることが出来たかったとも言われていますが、義景の性格なのかもしれません。
朝倉軍の退却を知った信長は、小谷城の包囲はそのままに朝倉勢を追撃することを決めます。
合戦でいちばん難しいのが退却。
特に最後部は敵の攻撃を一手に受けることとなり、ここを守る武将は討ち死に覚悟で踏みとどまり、相手と戦って時間を稼ぎ本隊を退却させなければなりません。
もともと士気が上がらなかった朝倉軍、このあたりの防御もうまくいきませんでした。
信長は自ら騎馬隊を率いてとんでもない速さで朝倉軍に追いつき攻撃をかけます。
朝倉軍の武将の中には反転して織田軍に向かいこれを押し戻すものもいたのですが、織田軍の勢いは衰えず、朝倉の一門衆や重臣など、朝倉家の中核となっていた武将の多くがここで討たれてしまいます。
織田軍はその後も朝倉軍を徹底的に追撃し越前に侵入。
この追撃戦により、つい先日一乗谷を出発した朝倉軍のほとんどが壊滅してしまいました
13日、朝倉義景は一乗谷に到着します。
続いて敗れた朝倉の兵が次々に到着。街の人は目を疑います。
ついこのあいだ、きらびやかないでたちで出発した大軍が、見るも無残な姿となって目の前に現れたのです。
帰ってこない者は数知れず。
あんなに強そうだった朝倉の軍をこのような無残な姿にしてしまう新興勢力織田軍とはどのような軍隊なのか、町の人は怯えます。
さらにこの一乗谷にその織田軍が攻め入ってくるという情報が流れてきます。
約百年、平和で優雅だったこの町に、敵が攻めてくるというのは信じられないことだったのです。
当主義景はこの地で切腹しようとしますが、重臣朝倉景鏡の勧めに従って山に囲まれた大野に引き上げ再起を図ることにします。
信長は越前国府に本陣を置き、柴田勝家、佐久間盛信らの軍勢を一乗谷に向かわせます。
織田軍が攻めてくることを聞いた一乗谷の住民たちは荷物もそのままに皆あちこちに逃亡します。
つい半月前まで平和で優雅だった一乗谷は一日でゴーストタウンになってしまいます。
越前国内に残っていた朝倉家の武将も援軍には駆け付けず、一乗谷に残っていた兵士も逃亡してしまいます。
残ったのは最後まで朝倉に忠誠を誓うわずかな兵。ここに踏みとどまり、最後の抵抗を見せたと伝わります。
朝倉館の東の山にあるのが英林塚。
この時から約百年前、この一乗谷に本拠を移した朝倉孝景の廟です。
この廟から山伝いに歩くと朝倉家の子女が入ったと伝わる尼寺南陽寺にたどり着きます。
その道は両側に山が迫りまるで谷のよう。
実はこれ朝倉氏によって掘られた巨大な空堀の跡なのです。
朝倉館を囲む水堀。山の斜面にぶつかったところで空堀となりそのまま上につながっています。
この空堀は背後にそびえる高さ30m程の観音山の周りを通り、反対側の水堀まで伸びていました。
この空間は一乗谷の最も主要な場所。観音山には櫓のようなものがあり、館の背後にある湯殿跡と呼ばれる曲輪と合わせた最終防衛ラインだったのでしょう。
一乗谷を囲む山にはいざというとき籠る城が築かれていましたが、戦いでは一度も使われなかったそうです。
織田軍の攻撃に立ち向かった朝倉のわずかな兵士たち。その戦いの場所はここだったのかもしれません。
一乗谷を逃れ大野に移った義景ですが、宿所としていた寺を突如200人ほどの兵が囲みます。
義景を大野に避難させた朝倉景鏡が裏切ったのです。
義景の近習は奮戦しますが多くの者が討たれ、その中で義景は自刃、一乗谷朝倉家は滅亡するのです。
越前大野にある義景清水。
ここに朝倉義景の墓があります。
豊かな国越前を長く治めた名門の御曹司。
天下を動かす戦いに参加するもどこか積極性が無く勢力を広げることはありませんでした。
もしかすると越前一乗谷で優雅な暮らしをしていた義景の目には、他国は訪れたくもない野蛮な空間に映ったのかもしれません。
当時北の京ともよばれ発展を続けて一乗谷は、戦国のニュータイプ織田信長によって滅ぼされます。
信長が、琵琶湖のほとりに誰も見たことが無い城を築き、天下の中心となる新しい都市を築くのはそれから9年後のことです。