豊臣政権ナンバー2の実力者!秀吉の弟「秀長」の城がスゴイ(大和郡山城)

今回紹介するのは大和郡山城。

この城を築いたのは豊臣秀吉の弟秀長。大和・紀伊・和泉(いずみ)国にまたがる100万石を超える所領を持つ豊臣政権ナンバー2の実力者です。

郡山城はとても珍しい石が使われている城。

なんと御地蔵様が石垣の一部として使われているのです。

どうして秀長はそのような石を使った城を築いたのでしょうか。

石が全然無いのに「石造り」にしなければならなかった事情

奈良県大和郡山市。平城京の南端、羅城門(らじょうもん)があった西の丘の上に郡山城はあります。

もともとここには筒井順慶が築いた城がありました。

それまで和歌山に拠点を置いていた秀長は、大和の所領を得た後、ここに移ってきます。

郡山は京に近い交通の要衝であり、また戦の時には豊臣家の本拠大坂を東から守る防衛拠点でもあります。

秀長はこれらの役割を果たすにふさわしい豊臣流の巨大な城をここに築くことを決めるのです。

ところが秀長の築城を邪魔する問題が発生します。それは石。

郡山城のあるあたりは石が全然取れない場所だったのです。

豊臣流の城には石垣が必要。

そこで行われたのが「石集め」です。

付近の町や寺から石という石を片っ端から集めてくるというものです。

その中には生活で使う石臼やお墓の石、さらにお地蔵さんもありました。

郡山城跡の様子



駐車場の目の前にあるのが追手門。郡山城中心部への入口です。

門を挟む二つの櫓もとてもカッコいいですね。

追手門や周りの櫓は明治時代に取り壊されてしまいましたが、昭和になって豊臣秀長時代をイメージして再建され、現在は郡山城の顔となっています。


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追手門をくぐると城の中心本丸の石垣が見えてきます。

一段高くなっているのは天守台。

あの上に天守が築かれていたようです。

本丸との間にはまるで谷のような堀が設けられています。

郡山城は市街地から一段高くなった台地の上に築かれているので、この堀は人の手によってこの深さまで掘られたものだと思われます。

相当な人手と費用がかかったのでしょう。



本丸の北側にあるのが天守台。

このあたりから転用石がたくさん見られるそうなので探してみましょう。

お墓の石を立てて積むのではなく奥行きを出すため寝かせて積むので、根元の部分が見えていることが多いと思います。

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転用石でとくに有名なのが天守台北側の「さかさ地蔵」。


石垣の下のほうに目を向けるとそこには頭を下にしたお地蔵様がみえます。

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穴の中に顔を突っ込こまないと全然わからないのですが、確かにお顔が見えますね。

暗い穴の中に突っ込まれてなんだかちょっとかわいそうな気もします。

日の当たる場所にあったころには前を通る人が手を合わせていたかもしれません。

お供え物をする人もいたのでしょう。

ある日突然お地蔵様の役目を終えて石としてここに運ばれたのですね。

お地蔵様だけでなく墓石などを城の石垣にするのはちょっと気が引けますよね。


なんだかばちが当たりそうです。

どうしても「石垣」が必要だった理由は?



ではどうして豊臣秀長はそんなに郡山城を石垣でかこみたかったのでしょうか。

それはやはり豊臣政権の力を示すためであると考えられます。

城はもともと敵の攻撃から味方を守る施設。防御だけなら空堀をめぐらしその土を積み上げて土塁にすればよいのです。

石が豊富にとれない地域ならなおさらです。

それでも石垣にこだわるのは、郡山城が豊臣家ナンバー2の秀長の力を表す象徴的な城と考えられていたためです。

他の大名にはできない高い技術を必要とした石垣づくりの豊臣の城をこの大和の国に築くことに重要な意味があったのでしょう。

郡山城は大坂城に次ぐ、豊臣家の重要な城だったのです。

郡山城に天守はあったのか?

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天守台からの眺め

そんな秀長の郡山城には天守はあったのか、これはずっと謎でした。

ところが平成になって行われた発掘調査で建物を支える礎石が確認され、秀長の時代かその後に天守があったのだろうと考えられるようになりました。

またその天守は後に京都の二条城などに移築されたこともわかってきました。

郡山城天守台に登ると礎石の跡がわかるようになっています。

この石の上に木を組み、巨大な建物を建てたのだと思います。

残念ながら天守の規模や形がどのようなものだったかわかりませんが、秀吉が行った城郭政策である金箔瓦が使用された豪華な建物だったのでしょう。

天守台の南側には付櫓があったと思われる段があります。

おそらくここが天守への入口だったところです。現在の天守台に登る階段は後になって作られたもの。

当時、どうやって天守に入ったのかはっきりしなかったようです。

この付櫓の部分も発掘調査が行われ、南側から入る入口があったことがわかってきました。

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天守への入口を塞いだと思われる石垣

石垣を見てみるとなんとなく入口をふさいだような跡があるのがわかるでしょうか。右上の部分です。

これを見たとき私は天守入り口がここにあった証拠だと興奮してしまったのですが、ここの石垣は後に積みなおされたものということ。

証拠とはならず残念です。



天守台の上には展望施設があり、遠く奈良市街まで見渡すことができます。ここから見ると大和の国すべてをここから掌握できる気がしてきます。

郡山城は平和な時期は圧倒的な力を見せつける豊臣の城でした。

そして戦闘となれば東からやってくるであろう敵をここで防ぎ、兄秀吉の居城大坂を守る要塞となります。

そのため付近の石をやたら集めた石垣が築かれたのでしょう。