戦国の天才児「織田信長」が好き勝手に築いた城がすごすぎた「小牧山城」(愛知県小牧市)

織田信長の城造りとは

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織田信長

ある日、城の中心に塔のような巨大な建物を建てたらいいのではないかと考えた戦国大名がいました。
それは織田信長です。

信長は一ヵ所の戦場に集中して鉄砲を運用するなど、それまで誰も行わなかったことを次々に進めた人物としても知られています。

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信長が後に居城とした安土城跡にはまっすぐな道の痕跡がある

城についても信長は斬新な考えを持っており、居城となった安土城には、一度見たら忘れられない形をした5層の天主がそびえていました。
信長は安土城を他の大名の使者などに見せ、見学料をとったと言われています。
また、城下町の灯りをすべて消し安土城を提灯でライトアップするなど、かなり楽しんでいました。

この安土城への道は入り口からまっすぐ伸び、まるで天主を眺めるためにあるかのように山の上まで続いていました。
たいていの城は敵が簡単に進入できないよう、通路を右や左にわざと曲げてあるものですが、信長の安土城は全く別のことを考えてまっすぐな広い道にしたのでしょう。

このような城を築いたのは信長くらいで、とても不思議なことなのです。

ところが信長は、安土城を築くかなり前に別の城にもこのまっすぐな道をつくっていました。
それが今回紹介する小牧山城。

小牧山城は30歳の信長が初めて自分のために築いた城。
その跡を訪れると若き信長が考えた新しい時代の城のイメージが見えてくるのです。

信長ほど本拠を変えた大名はいない

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1560年、織田信長は桶狭間で駿河の大名今川義元と戦い、勝利します。
そしてこの勝利からわずか3か月後、美濃の齊藤家の領土にちょっかいを出し始めます。

齊藤家との戦いはなかなか進まなかったのですが、2年後今川家から独立した松平家(徳川家康)との同盟が成立し東の心配がなくなると美濃攻略に専念できるようになり、このタイミングで織田家の本拠を小牧山に移したと思われます。

信長がそれまで拠点としていた清州城から北に新しく城を築いて移ると言うと、家臣たちは賛成しないはずです。
そこで信長は、まず小牧山よりかなり遠い山の中(丹羽郡二ノ宮山(現・愛知県犬山市楽田地区二ノ宮の本宮山))に城を築き移転すると言います。

家臣は嫌な顔をしますが、頃合いを見計らって「では小牧山にしよう」と言うと、皆山の中に引っ越すよりマシということで、移転に同意したといいます。(信長公記)

戦国大名が本拠を移すというのは思ったより大変なことで、織田家家臣たちも住み慣れた清須から、他の地へ移ることへの抵抗は大きかったと思われます。
しかし信長はこの後も岐阜・安土と拠点を変え、尾張にもどってくることはありませんでした(父信秀も居城を移転させていました)。

家臣たちは先祖代々の土地から離れ、縛られることなくどこまでも軍を派遣できるようになり、織田家が急成長していく原動力となったともいえます。

濃尾平野の真ん中にポツンと存在する小牧山


小牧山城は濃尾平野の真ん中にポツンとある小山に築かれています。
周辺に駐車場があり、城の跡は公園として整備されています。

小牧山の麓には堀で囲まれた敷地が並んでおり、織田家家臣の屋敷がありました。
屋敷の大きさは一辺45m程で統一されていたようで、家臣たちは本拠小牧山に詰めていたのでしょうか。

南東部の屋敷の跡は一辺75mと他のものと比べてやたら広く、信長の屋敷ではないかと言われています。

現在は山の周りの様子が変わっており、ここから見える敷地は当時のものより狭いのですが、ここに信長が住んでいたのかもと思うとドキドキしますね。

小牧山の周りは土塁の跡があるのがわかります。
北側の駐車場付近では土塁の断面が見えようになっており、これについての説明看板があります。

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再現された巨大土塁

それによるとこの土塁は信長時代のものではなく、のちに徳川家康が造ったものということ。
信長の死後、豊臣(羽柴)秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦いで家康は小牧山を本陣とし、山の周囲に巨大な堀と土塁を築きました。

小牧市役所の北側には家康の巨大土塁が再現されており、これは一時的な陣ではなく城とも言える規模ですね。
さすがに秀吉も手を出せなかったようで、この時小牧山での大規模戦闘は起こりませんでした。

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小牧山山頂に向かうまっすぐな大手道



家康の土塁(再現)の隣に信長時代の正面入り口があります。
小牧山城の大手は防衛に不向きなまっすぐな道。
頂上に近づいたところで折れ曲がり城の中心部に入るようになっていました。
これは本当に安土城とソックリですね。

調査ではこの道の地下に当時の大手道が埋まっており、道幅は5m以上、道の両側に石積があり真ん中には幅 20cmの排水溝が設置されていたことがわかりました。

安土城の大手道は天皇を迎えるために造られたと言われていますが、その原点が小牧山城の大手道ということでしょうか。
ここは信長の「お気に入り」の場所だったのだと思います。

直線的な大手道の先にそびえる城は、城下を行き交う人々に信長の力を強く印象付け、小牧山城は軍事拠点というだけでなく政治的機能も持つ城だったのです。

若き信長が小牧山城で行った面白い取り組みはこれだけではありません。
それは石垣。

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石垣の上には資料館が建つ

小牧山の山頂には天守を模した歴史博物館がありますが、この下に信長時代の石垣があります。

お城と言えば石垣というのは後の時代になってからのこと。
どの城もはじめは土手(?)で防御されていたのです。

この土手を石で囲めばカッコいいだろうと思ったかどうかはわかりませんが、信長は小牧山の頂上の曲輪を石垣で囲んだのです。

後の時代の城のような美しいものではありませんが、それでも山の上を石垣で固めた城が出現したら、遠くからでも相当目立ちますね。
小牧山城ができ上がっていくのを見た敵が、戦わずして撤退したという話もあり(信長公記)、この石垣のおかげかもしれません。
立派な城というのはただあるだけでもそれなりの威力があったのですね。

ひとつひとつの石はなかなか大きいです。説明看板には発掘調査のときの写真がありますので、見ながら回ると面白いです。

石垣のほとんどが保存のために埋め戻されているのは残念ですが、そこは想像力で補います。

このころはまだ高い石垣を築く技術がなかったのですが、何段かに分けて積むことで、下から見上げたときに高い石垣に見えるよう工夫がされています。

石垣の裏側に詰める石が集められており、大小合わせてこれだけの石を集めるのはさぞかし大変だったのでしょう。
それでもこれを見た敵が逃げるのであれば、手間をかけて石垣を築く効果は絶大だったのでしょう。

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小牧山城の普請を担当したのは丹羽長秀ということですが、他の家臣の名が書かれた石材が発見されており、(佐久間)織田家家臣がそれぞれ資材を用意したり、作事するなど皆で工事したのだと思います。

下に転がっている石は何らかの理由で崩落し放置されていたものです。
ここに埋もれていた小牧山城の石垣のほとんどは崩れた状態で発見されたのですが、自然に崩れたものでなくある時一気に崩れたものということです。

地震でしょうか、それとも人の手によって崩されたのでしょうか。
人の手によるものなら誰がどのような目的で崩したのでしょうか、このあたりは謎です。
信長の聖地でもあり家康の開運の場でもある小牧山。人々はこの山をどのように見ていたのでしょうか。

小牧山から信長は美濃への勢力拡大に成功した

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小牧山城の築城により、織田家の美濃攻略ルートが中濃に広がりました(それまでは西濃・大垣方面のルートで稲葉山城を狙っていました)。

移転の翌年、美濃では斎藤家家臣竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取りが発生。
当主竜興は半年の間家臣に本拠を占領されるという失態を犯します。

やがて美濃三人衆と呼ばれる斎藤家臣も離反し信長の味方に、斎藤家の衰えは明らかになり、戦いは信長有利に傾いていくのです。



まっすぐな登城路の先にキラキラした石垣が並ぶ斬新な信長の小牧山城。

これを目にした人々はその様子をあちこちで伝え、やがて周辺の国々の武将たちの動きに影響を与えたのかもしれませんね。

信長はこの城を拠点にやがて美濃を併呑していくのです。