「安土城」が低い山に築かれた理由

織田信長の居城


安土城は織田信長の居城としてあまりにも有名ですね。


安土山の山頂に建てられた「天主」は一度見たら絶対忘れられない不思議な形。

外観五重六階地下一階(といわれている)の巨大な建物の内部は、1階から4階までが吹き抜けで御殿のような造り。

その上に八角形のお堂のような建物と上に四角の望楼が乗っていました。

信長は実際にこの建物に住んでいたようです。


また安土城は、それまでにない「たくさんの石垣を使った城」でもあります。

この石垣は現在も残っているのですが、すごいのはこの上に「建物をのせることができる」ように造られていること。

これによって石垣の端ギリギリに櫓や塀を建てることができるようになるんですね。

これは当時の最先端技術。それまでの城の石垣とはちょっと違うのです。

安土城が築かれた山は低かった


ところで信長はどうして安土山を選んだのでしょうか。

安土城があるのは現在の滋賀県近江八幡市。

近くには東西だけでなく北陸や伊勢につながる街道が走っており、また琵琶湖の水運も使える交通の要衝です。

ですが地図を見ながら考えていると、不思議だなと思うことが浮かんできます。


これは安土城周辺の様子です。

安土城が築かれた山が思ったより小さいことがわかると思います。

というか安土城の隣にある山が巨大すぎて、こちらの方が存在感ありすぎです。

この立派な山「繖(きぬがさ)山」の高さは435m。

安土山は190m程です。

信長の安土城は、この立派な山の隣にあるオマケみたいな山(丘?)に築かれていたんですね。

実は「繖山」には前の領主六角氏の「観音寺城」がありました。

この城も石垣で囲まれたたくさんの曲輪が並ぶというかなり立派な造りだったようです。

しかし信長はこれを使わず、隣の小さな山に安土城を築くのです。

いったいどうしてなのでしょうか。

信長が低い山を選んだ理由とは



安土山は細長い三角形の形をしています。

いちばん高いところは南側で、そこに有名な天主が建てられました。

この周りを二の丸・三ノ丸などの曲輪が囲み、中心エリアへの入口は大きな門によって固く守られていました。

南側斜面には平らにされた区画が並んでおり、織田家家臣団の屋敷があったと考えられています。

その真ん中を大手と呼ばれるまっすぐな石の階段が貫いていました。

普通お城といえばわざと進路を曲げて敵を近づけさせないようにするもの。

しかし安土城大手は幅7mのゆるい階段が180mも一直線に伸びているのが不思議ですね。

ここを歩きながら見上げる石垣や建物はさぞかし美しかったのでしょう。

そして天主にいる信長の存在を、登城する誰もが強く意識することになるのです。

信長が安土城の築城をはじめたのは1576年。

このころの織田家は方面軍を編成し複数地域で戦いを進めるようになっていきます。

畿内にはまだ敵対勢力がいるとはいえ領国の中心部で戦いが行われることはなさそう。

安土城に求められたのは固い守りではなく、信長そして織田家の権力を「見せる」ことだったんですね。

比較的低い山に築かれた城の様子は城下町だけでなく街道からもよくわかり、人々を驚かせたでしょう。

比較的低い山に築かれた城の様子は城下町だけでなく街道からもよくわかり、人々を驚かせたでしょう。

観音寺城のあった「繖(きぬがさ)山」ではなく安土山が選ばれた理由がなんとなくわかりますね。

信長は「見せる城」を築くための「ちょうどよい高さの山」を選んだのです。