建物が全くない石垣だけの「天空の城」が有名になった理由
「天空の城」とは、山岳部にある城郭跡の雅称(がしょう)です。
「天空の城」で有名なのは他に福井県の越前大野城や岡山県の備中松山城がありますが、なかでも竹田城は「日本のマチュピチュ」とも呼ばれ「天空の城ブーム」の火付け役となった城と言われています。
そのきっかけは2007年、アマチュア写真家吉田利栄(よしだとしひさ)さんが撮影した雲海に浮かぶ竹田城跡の写真が紹介されたことです。
これを見て日本全国からその姿をおさめようとたくさんのカメラ好きが集結!
さらにその後GoogleのテレビCMに竹田城が取り上げられ一気に人気が出ます。
これによって竹田城は年間60万人以上が訪れる一大観光地となったんですね。
雲海は秋から春にかけての早朝に発生しやすいと言われており、朝晩の気温差が大きく、湿度が高く晴れた日というのが狙い目だということです。
ところで他の天空の城と比べて見てみると、竹田城には少し違うところがあります。それは竹田城にはひとつも建造物がないこと。
よく考えてみると不思議ですよね。
実は竹田城の石垣は、規模でいうと日本屈指レベル。ただの石垣ではないのです。
竹田城の石垣は巧妙かつ複雑に築かれており「これを築くには相当な手間がかかっているんだな」と実感せざるを得ません。
しかもこの石垣は約400年前からほぼそのままの状態で残っているという貴重なものなのです。
竹田城が豪華すぎることが謎です・・
そもそも山間の山城である竹田城に、現在まで多くの人を魅了する立派すぎる石垣が築かれていた!というのは不思議なことです。
この石垣が築かれたのは1584年頃、そのときの竹田城城主は斎村 政広という人で石高は2万2,000石。
わずか2万石のお金もない大名がこんな立派な城を築くことができたのは、ちょっと考えられないことです。
どうして竹田城は小大名の城にも関わらず全国屈指の石垣が築かれる豪華な城になったのでしょうか。
それには竹田城の整備が当時の政権の後押しよって行われたことが考えられます。(一説です)
おそらく竹田城はある目的のために多額の費用をかけて整備されたのでしょう。
そしてその政権が交代し新しい実力者の大きな考えによって城主斎村政広は悲劇的な最期を遂げ、この城も使われなくなるのです。
竹田城の近くにあった日本有数の「銀山」
竹田城の簡単な歴史を見てみましょう。
竹田城は但馬守護であった山名氏によって築城されました。
山名家の重臣太田垣氏が代々城主を務めますが、戦国時代には織田信長と毛利氏の間であれこれ立ち回るようになります。
織田と毛利の戦いが本格的になると、織田家武将羽柴秀吉は弟秀長に3000の軍を与え竹田城を攻撃させます(1577年)。
このとき竹田城がいち早く攻撃されたのには理由があります。
一つはここが交通の要衝であり、毛利軍に味方する但馬諸将の動きを抑えるために必要だったこと。
そしてもう一つは、この城の近くに生野銀山があったこと。
生野銀山は日本有数の銀山で、のちの時代では全国の83%の銀を算出する規模を誇ります。
ということは竹田城を攻略すれば但馬支配が容易となり、また銀山によってガッポガッポ儲けることもできたということですね。
秀吉の時代になると、秀吉は斎村 政広を竹田城に入れ、このときに現在見られる立派な石垣などが築かれたと考えられています。
「天空の城」を見る
竹田城には車で向かいました。
JRを使って竹田駅で降りれば鉄道でも行けます。
駅からは城の跡に向かって坂道を登っていくので、本当はこちらの方が城を楽しめるのだと思います。
車では竹田城がある山の中腹までしか行けず、そこから山頂までは徒歩などで向かうことになります。
「山城の郷」という施設がありますのでそこを目指しましょう。
ここには無料駐車場やトイレ、自動販売機や案内所があります。
ここから歩いて30分ほどでしょうか、山道をうねうね登って城の跡を目指します。
城内の見学は一方通行のルートがきまっています。
このあたりもなかなか珍しいですね。マナーを守って見学しようと思います。
竹田城は標高353.7mの山上に築かれており、中心部は南北約400m、東西約100mに広がっています。
本丸と天守台を中央に配置し、そこから二の丸・三の丸・北千畳、別方向に花屋敷、さらに南二の丸と南千畳と三方向に曲輪を展開しています。
天守台は一辺12m程の少しいびつな形をしており、いくつか礎石があったことが確認されています。
天守の姿はわかりませんが、かなりしっかりした建物があったのだと思います。
現在は階段で登るのですが、当時は天守のとなりにあった付櫓から天守に入ったと考えられており、なかなか複雑な構造をした建物だったのですね。
この天守はまさに城の中央にあり、山麓の城下からよく見え、まさに城主の権威を示す見せる建物であったようです。
竹田城は一流の職人集団によって築かれた石垣の上に瓦ぶきの建物や複雑な構造の天守があがるなかなかスゴイ造りをしていたということがわかります。
そしてその築城はわずか2万2,000石の小大名の力によってできるものではなく、巨大な力による命令により、周辺の大名の協力によって行われたということが想像できます。
おそらく斎村 政広を城主に任命した豊臣秀吉による命令だったのでしょう。
では秀吉はどうしてこの小さな山城を立派に整備させたのでしょうか。
それは竹田城の近くにある生野銀山支配のためと考えられます。
この重要な地にある城を信頼できる家臣に管理させ、銀山と交通の確保をしっかりおこなわせたのです。
竹田城の殿様はどのような人だったのか
竹田城を任せられた斎村 政広とはどのような武将だったのでしょうか。
斎村 政広(さいむら まさひろ)は、竹田城からそう遠くない龍野城をおさめた赤松氏の支流でした。
織田・毛利の間で立ち回っていたのですが、1577年秀吉の播磨侵攻のとき龍野城は秀吉に取り上げらてしまいます。
斎村 政広は仕方なく秀吉の配下として働きます。
秀吉が播磨を平定すると龍野城は秀吉の武将蜂須賀正勝に与えられ、斎村 政広は正勝の与力とされました。
自分の城に入った人に仕えるなんて・・。これはちょっと悔しいですね。
でも斎村 政広はこんなことではめげず、その後秀吉の配下として一生懸命働きます。
そしてついに竹田城主に任ぜられます。
生野銀山を守る重要な竹田城を任せ、その城を豪華に整備させたのです。
秀吉は旧領回復ができなくてもめげずに仕える斎村 政広に、信頼を置くようになったのです。
竹田城が豪華なのは、秀吉のおかげなのですね!
悲劇!城主斎村 政広と竹田城の最後
しかし斎村 政広と竹田城は悲劇的な最期を迎えることになります。
斎村 政広は関ヶ原の戦いで西軍に与しますが、関ヶ原本戦で西軍が敗れると竹田城に帰還します。
そのとき旧交があった東軍の亀井茲矩(かめいこれのり)から連絡が。
東軍に降伏し西軍の鳥取城を一緒に攻めようというものです。
家名存続を願う斎村 政広はこの話に乗り、西軍から東軍に乗り換えて鳥取城を攻撃し、城下を焼き討ちします。
しかし戦後徳川家康の斎村 政広の処分は目を疑うものでした。
それは「鳥取城下町を焼いたことによる罪で切腹。」
これはちょっと変な話ですね。
斎村政広は援軍として参加しただけで、作戦方針が悪く放火による被害が出てしまったのなら総大将の亀井茲矩が責任を取らされるべきです。
ところが亀井茲矩はお咎めなし、その後3万8,000石の鹿野(しかの)城主となります。
斎村 政広は焼き討ちの責任を一人で取らされるかたちとなったのです。
斎村 政広は鳥取の寺で自刃し、その後竹田城も廃城となります。
生野銀山の支配をガッチリ固めようという家康の思惑が見て取れそうですね。
生野銀山は江戸幕府によって開発され産出量が増し、周辺地域は一気に繁栄したといいます。