桑名城の概要
桑名城は三重県桑名市にあった城。江戸時代は桑名藩の藩庁が置かれた。
揖斐川に臨む地に築かれた水城。周辺には桑名宿「七里の渡し」があり、東海道の要衝となっていた。
現在「九華公園」として整備され堀などが残るが、大半は現代に手が加えられたもので現存建築物は残っていない。
平成15年に蟠龍櫓が外観復元された。国土交通省水門統合管理所の建設がかつての蟠龍櫓跡で行われることになり、1階は水門管理所、2階は展望台兼資料室となっている。
関ヶ原の戦いの後、徳川四天王のひとり「本多忠勝」が桑名城主となり、四重の天守や多くの櫓が建つ巨大城郭となった。
アクセス
JR関西本線、近鉄名古屋線、養老鉄道桑名駅から徒歩15分。
付近の駐車場
柿安コミュニティパーク駐車場(有料)
七里の渡し公園暫定駐車場(無料)
徳川譜代「最大の城」だった桑名城
1600年、天下を二分した関ヶ原の戦い。
その直後、徳川家によってとんでもなく巨大な城が築かれました。
その名は桑名城。
巨大河川「揖斐川」を背にいくつもの曲輪を配置。中心となる本丸には四重の天守が建っていました。
城の要所に配した櫓の数は実に51基。城壁の役割を兼ねる多門櫓まですべて合わせると97の櫓が建ち並ぶという、とんでもなく堅固な城。
周囲に幾重にも水堀を巡らし城下町と一体となった広大な城域には、なんと5万人の兵士を収容できたとのこと。
全国有数の規模を誇る城が、ここにあったのです。
桑名城を築いた徳川四天王「本多忠勝」
この城を築いたのは徳川四天王のひとり本多忠勝。
早くから家康に仕え、桶狭間から関ヶ原までの多くの合戦で活躍。
名槍「蜻蛉切」を手に武をもって徳川の天下を実現させた猛将です。
忠勝がこの地に入ったのは1601年。(上総大多喜から桑名10万石に移動。旧領・大多喜は次男・本多忠朝が別家5万石で継ぐ)。
桑名城改修にあたっては、徳川四天王の一人である井伊直政が家臣を動員して普請を応援したという逸話が残っています。
それにしても、どうして本多忠勝は97もの櫓が建つ堅固な城を築いたのでしょうか。
忠勝の桑名築城には、天下をねらう徳川家康の考えが大きく影響していたはずです。
桑名城跡「九華公園」を散策
三重県桑名市の九華公園。
1928年(昭和3年)に整備されたもので、桑名城の本丸・二の丸があった場所です。
公園はとても複雑な造り。広い水路の中に島のような場所が点在し橋でつながれています。
水のある場所はかつての桑名城の堀。そして島は曲輪の跡です。
曲輪はそのまま残っているのではなく、削られたり埋め立てられたりしてかなり形は変わっているよう。
いかにも城というようなデコボコしたラインがありますが、当時のものとはちがいます。
と言っても広い水堀の向こうに城の姿を想像するには十分。
当時はさぞかし立派な眺めだったのでしょう。
橋を渡ったところが本丸の跡。
奥のほうは埋め立てられグラウンドやプール、神社になっていますが、曲輪の隅の部分に高まりが残っています。
これは本丸に建っていた櫓の跡です。
本多忠勝が入城する以前の桑名城には、神戸城(かんべじょう)の天守が移されていたと伝わり、忠勝はこの天守を「神戸櫓」と名付け、本丸を防御する三重櫓として使いました。
本丸の東南にあった辰巳櫓。
江戸時代中ごろ(元禄14年(1701))に焼失した天守の代わりとして使われた三重櫓です。
幕末まで桑名城のシンボルとして建っていたのですが、のちに新政府軍によって焼き払われてしまいました。
神社の奥にある石垣。ここに天守が建っていたと言われています。
桑名城の天守は外観四重、内部は6階だったと伝わり、望楼型で穴蔵を持つ構造だったと考えられています。
現在見られる天守台石垣は後世に積まれたもの。私が行ったときは立ち入り禁止となっていました。
ちょっと登ってみたかったですね。
実際のものとは違いますが、このようにしていただいているのはありがたいこと。
ここに桑名城の中心となる高層の建物があった!ということを知ることができるのですね。
さてここまでご覧になってくださった城好きの皆さん。
「なんだ、桑名城の跡って何も残っていいないじゃないか」と思うでしょう。
そう、幕末の鳥羽・伏見の戦いの後新政府軍の前に無血開城した桑名城は、明治になり懲罰処分として徹底的に破壊されてしまったのです。
石垣は付近の四日市港の防波堤建設のために持ち出されてしまいました。
現在桑名城の跡に石垣の遺構がほとんど見られないのは、そのためです。
城として機能していた当時は、5mを超える高さの石垣が巡っていたと言われています。
桑名城の遺構が残るポイントを巡る
桑名城の外に位置する「歴史を語る公園」。
目の前にあるのが当時の堀。その向こうにあるのが桑名城の石垣です。
ここでは残された貴重な桑名城の石垣をじっくり見ることができます。
石垣の下部分が本多忠勝時代のものらしい。上部は後の時代に積みなおされたと考えられています。
忠勝が行った慶長の町割り
本多忠勝は桑名に入ったとき、城の改修だけでなく城下町の整備を行いました。
それまでの町屋を移動させ新たに近代的な町に作り替えた「慶長の町割り」。
これが現在の桑名の街の基礎となっています。
七里の渡し公園は東海道の「七里の渡し」があったところです。
江戸時代、熱田の宮宿から桑名まで陸路はなく(間道はあったがそれでも船による移動が必要だった)、人々は約4時間かけてこの間を船で移動していました。
当時の東海道は天下の大動脈。その桑名側の港ということで、多くの人や物資を載せた船でさぞかし賑わっていたのでしょう。
七里の渡し跡からまっすぐ延びる道が当時の東海道。桑名城の西側を通っていました。
現在は交通量の少ない道ですが、江戸時代本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒が並ぶ巨大な宿場町がこの先に広がっていました。
東海道を進むと右手に見えてくる大きな鳥居。
桑名を守る春日神社です。
銅でできた鳥居は日光東照宮など、一部でしか使われていない豪華なもの。
当時の桑名の繁栄ぶりがわかりますね。
この鳥居は江戸時代に建てられたもので、それより前は本多忠勝が建てた木製の鳥居があったそうです。
桑名城の戦略的役割とは?
本多忠勝の改修によって巨大城郭となった桑名城。その役割はいったい何だったのでしょうか。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康。
しかし戦後の論功行賞では豊臣恩顧の大名に広大な領地を与えることになりました。
関ヶ原の本戦に徳川本隊が参加できなかったためです。
石田三成など反対派を一掃したとはいえ、大坂の豊臣秀頼は健在。
家康が恐れたのは、力を付けた豊臣恩顧の大名たちが秀頼を担いで徳川に反旗を翻すことでした。
勝利の美酒に酔う暇もなく、家康は次の戦いに向けた「備え」を行わなければならなかったのです。
江戸の徳川と大坂の豊臣との間で戦が起こった場合、三河・尾張そして伊勢は双方にとって戦略上の重要地点となります。
しかしここを分断する木曽川・揖斐川・長良川という巨大な河川の流れがありました。
現在ではいくつもの道路が通り簡単に超えることができますが、当時の木曽三川は流れが定まらずまるで海のような存在。
徒歩で渡るなんてのは無理。
ましてや多くの兵が一度に移動することは不可能でした。
豊臣との戦で想定される大坂への進軍ルート。
徳川が伊勢を経由して大坂に兵を送るにはどうしたらよいか。
さらに戦に敗れて撤退した場合、どのようにして兵を収容するのか。
間に横たわる木曽三川。それに対する対応が、桑名に巨大な城を築くことでした。
大坂から尾張・三河に兵を撤退させる場合、伊勢まで戻ってきても木曽三川に行く手を阻まれそれ以上進むことはできません。
しかしその手前に徳川の拠点があれば逃げ込むことができます。
さらにその拠点に兵を集結させ立てこもれば、進軍してくる豊臣軍に足止めを食らわし反撃することもできます。
大坂から見て木曽三川の手前に位置する桑名城に求められたのは、数万の豊臣軍に攻撃されても持ちこたえる防御力。そして多くの兵を収容できる規模でした。
桑名城に97の櫓が建ち並び、5万の兵を収容できる広さがあった理由がわかりましたね。
本多忠勝は家康の考えに沿った城造りをしたのです。
桑名城は徳川の対豊臣戦を想定した巨大要塞だったのです。
戦いに使われなかった要塞「桑名城」
桑名城の北側。揖斐川の側に建つのが「蟠龍櫓」(ばんりゅうやぐら)。
2003年(平成15年)に再建されました。
蟠龍とは「天に昇る前のうずくまった姿の龍」。それをかたどった瓦がのっていたと言われています。
有名な「歌川広重 (うたがわひろしげ)の「東海道五拾三次」の浮世絵。
桑名七里渡口(くわなしちりわたしぐち)では帆を降ろし間もなく到着する二艘の船が描かれ、奥に桑名の城が見えます。
この中のどれかが蟠龍櫓なのかもしれません。
桑名城は豊臣との戦いで使われることはありませんでした。
戦いの無い時代が訪れると桑名は宿場町としても更なる賑わいを見せます。