豊臣秀吉と松下之綱の関係とは?
日本一の出世をした男、豊臣秀吉。
農民(と言われる)から織田信長の家臣を経て ついに天下人となった話はとても有名ですね。
そんな秀吉が、生涯にわたって仲良し?だった武将がいます。
それは松下之綱(まつした ゆきつな)。
之綱は秀吉が織田信長の家臣となる前に仕えた人物。
秀吉のはじめての「主人」と言われています。
秀吉はここで倉庫の見張り番として働きます。
しかし秀吉の活躍をよく思わない家臣に濡れ衣を着せられ、松下家を去ることに。
その後大出世した秀吉は之綱を家臣として招き、やがて小さな城と1万6千石の領地を与えます。
秀吉は苦しい時代に優しくしてくれた之綱に感謝していたのかもしれませんね。
今回は之綱が秀吉からもらった城、静岡県袋井市の久野城を紹介します。
第二回日本城郭協会大賞を受賞した城跡
久野城は、現在ちょっとした話題となっています。
ここの保存会(久野城址保存会)が、第二回日本城郭協会大賞を受賞したのです(2023)。
久野城の跡に宅地造成計画が持ち上がったは昭和50年代のこと。
そのとき城の跡を残そうと地元の方々によって結成されたのがこの会です。
やがて久野城の跡は袋井市の指定史跡となり、現在は草刈りを行ったり地元の小学生を対象とした教室を開催しているそうです。
素晴らしい取り組みが評価されたんですね。
久野城跡の様子は?
無料駐車場には何台か停めることができるスペースがあり、トイレも設置されています。
「ご自由に」とパンフレットがありますので、ありがたくいただいていきます。
城跡の周囲は湿地となっていますが当時はもっと水があり、久野城は三方を水に囲まれていました。
もともと久野城は本丸のある丘の上が中心だったのですが、やがて下の低地にも城域を広げていったようです。
城内で「いちばんよいところ」が南の丸。
日当たりのよい広く平らな場所で、地盤もしっかりしているそうです。
ここには城主の御殿がありました。
現在でも南の丸は日当たりも良く、なんだか落ち着ける空間でした。
本丸に向かうには一度左にそれて高見と呼ばれる曲輪を通るようになっています。
ちょっと登っただけですが周りの景色がよく見えます。
久野城のすぐ南には東海道が通っており、そこを監視するにはちょうど良い場所ですね。
本丸からは先ほど歩いてきた大手から南の丸、そして高見へのルートが全部見えます。
最大の見どころ「切岸」
おそらく久野城最高の見学ポイントと思われる場所。
それが本丸東側の崖です。
いったい高さは何メートルあるのかわかりませんが、上から見るとほぼ垂直に見えます。
この巨大な崖、東側に回ると下から見ることができます。
人の手によって削られた崖で「切岸」と言う城の防御施設です。
かなりの年月が経っているので崩れたり埋もれてしまった場所もありますが、今でもその鋭さがよくわかります。
久野城に天守はあったのか
冒頭で触れましたが、この城の城主は豊臣秀吉のはじめの主君松下之綱。
秀吉は之綱にこの城を与えただけでなく改修の手助けをしたと考えられています。
袋井市の調査によると久野城ではこの時代の瓦が発掘されており、信長の居城安土城でも使われていたような「渦巻き模様」のものもあったそうです。
それは、久野城が「なかなか豪華な城だった」ということを意味しています。
秀吉は之綱に城を与えただけでなく、豪華になるよう手助けしたのですね。
松下之綱が亡くなったのは1598年。
秀吉が亡くなったのと同じ年です。
松下家は之綱の息子が継ぎますが江戸幕府によって常陸へ移され、久野城とは離れ離れに。
久野城がいちばん立派だった松下の時代。之綱は秀吉にお礼を言っているかもしれませんね。