兵站支援基地であるにもかかわらず鉄壁の防御
長野県松川町にある大島城。戦国最強と呼ばれた武田家が改修した城です。
大島城の見どころは二つ。
一つは城の入口を守る巨大馬出。これでもか!という圧倒的存在感があります。
そしてもう一つは敵兵が攻め込んでくるルートにいくつも仕掛けられた「連続防御システム(?)」。
大島城はそれほど大きくはありませんが、手の込んだ「守りの堅い」城なのです。
大島城を今の形にしたのは武田信玄(武田家滅亡直前に武田勝頼が改修させた部分もあると言われています。)と言われています。
武田軍が遠江や三河など「西」へ軍を進めるにあたって、兵站支援などを行う城(策源地)として使おうとしたのです。
現在でいうと物流センターみたいなものでしょうか。
もともと大島城には本丸しかなく、それでは兵を集めたり物流センターをやるのは無理なので、二の丸・三の丸という曲輪が追加されました。
ところで、「あれ、物流センターに巨大馬出とか連続防御システムとか、そんなスゴイ施設が必要なの?」って思いませんか?
武田信玄は、いったいどのように考えていたのでしょうか。
これはわかりませんが、将来もし武田家が劣勢となったとき「大島城を伊那防衛の拠点としても使えるように」と整備したのかもしれません。
信玄の小さな不安は、約10年後織田信長による甲州征伐において現実となります。
そのとき大島城の防御システムは、どのように働いたのでしょうか。
大島城の立地
大島城があるのは長野県松川町。長野の大きな谷の一つ伊那谷です。
谷と言ってもその幅はとても広く、平原のようにスパッと開けた土地です。
谷の真ん中には天竜川が流れており、そのほとりに奇跡的に残ったような丘の上に大島城はあります。
車でしたら中央自動車道松川ICから20分くらい、電車でしたらJR飯田線山吹駅が一番近いのだと思います。
「台城公園」と呼ばれています。
無料駐車場とトイレがありますが、自動販売機は見当たりませんでした。
トイレの前でパンフレットをもらうことができます。
こういうのは城好きにとって本当にありがたいですよね。
大島城は「後堅固の城」。
東側は天竜川、南北は近づくのが難しい崖になっています。
天竜川の水運を利用して物資を運ぶこともできたので、兵站基地としての立地も最高です。
城の跡は現在公園として整備されています。
歩道があって歩きやすく、それほど高低差もほとんどないので、気軽に立ち寄ることができます。
駐車場から本丸まで、まっすぐ向かえば7~8分。
それほど広い城ではありません。
なぜか公園内はゴルフのコースになっていて、入口に近い三の丸から1番ホールが始まって18番ホールは本丸にあります。
もしかすると休日は利用される方がいるのかもしれませんが、私が訪れた平日は誰もいませんでした。
いきなり最大の見どころ「二重馬出」が出現
まずは駐車場のすぐ近くにある、馬出を見てみましょう。
実はこれ、城に入る道路沿いにあるので、必ず目にします。
おそらく城好きな方なら「あっつ!馬出だ!」とここで急ブレーキを踏んでしまうでしょう。
そのくらいの存在感があります。
丸い形の谷間が三日月堀、そしてその内側の高まりが馬出です。
こんなに巨大な馬出がはっきりとした形でみられる城は珍しいと思います。
「ここから城内だが、俺を攻略しないかぎり一歩も進ませないぞ!」と語りかけてくるようです。
馬出とは一体何かというと「城兵の出入りの安全を確保し、敵兵が虎口(曲輪の出入口)へ殺到するのを防ぐ」モノ(現地案内資料より)。
虎口には「敵兵が通れないように閉じる」、「味方の兵の出撃や退却時は開ける」という全く正反対の役割が求められ、その矛盾を解消する方法として虎口の前に陣地のような形で作られます。
武田家はよく丸い形の馬出を用いたと言われています。
三日月堀の底までの高低差は5mくらいはあるでしょうか。「深いな!」って思いますが、実は昔はもっと深かった!
今私の目の前にあるのは400年以上前の堀の跡。斜面は崩れ落ち、堆積物によって埋まっています。
おそらく当時は「大人一人分の背丈」くらいプラスした深さがあったのでしょう(これは何かの本に書いてあった情報です)。
そして底の部分はもっと狭く尖っていて、もし転落したら挟まって抜け出ることは不可能だったのでしょう。
しかもこの三日月堀の中には土塁のような段があり、二重構造だったのですね。
今では想像できませんが、乗り越えることなんて不可能、とても怖いものだったのです。
攻撃側はまずこの馬出を攻撃し占領した後、さらに奥にある三の丸の虎口を破壊して城内に進まなければなりません。
とにかく巨大馬出が目立つので城への入口はここしかないように見えますが、実はもう一つの入口が北側にあり、そこにも馬出がありました。
この北側の馬出は奇襲用。敵兵が正面の巨大丸馬を攻撃しているときここから兵を出撃させて側面攻撃をするんですね。
攻撃側は夢中になって馬出に取り掛かっているところを横から攻められたら、きっと大混乱になるでしょう。
それを討ち取るのは難しいことではありません。
そして、この作戦が成功するよう、巧妙な罠が仕掛けられていました。
それは巨大馬出が作られた位置。
大島城の縄張り図を見てみると、台地の幅に対してやや南寄りに巨大馬出が作られているのがわかると思います。
このような配置にすると、馬出から遠い北側は弓・鉄砲の攻撃が薄くなるので、攻撃兵たちはこちらに寄ってくるんですね。
つまり気づかないうちに大島城北側馬出の前という奇襲ポイントに誘導されてしまうということ。恐ろしい仕掛けです。
(北側の馬出は武田勝頼の代になって改修されたかもしれません。巨大馬出の設置は信玄の代に行われたようです。)
三の丸から続く「連続防御システム」
三の丸にやってきました。
馬出を突破した攻撃兵が進入してくるのは、このあたりにあった虎口です。
そして攻撃兵が次に目指すのは空堀の向こうにある二の丸です。
ここから大島城のすごいところ、「連続防御システム」がはじまります。
まず攻撃兵を待ち構えるのは不思議な三角形の形をした馬出。
この馬出はもともと二の丸の一部だったようですが改修によって独立したときこんな形になったと考えられています。
この三角馬出からは三の丸のほぼすべてが射程圏内なので、守備兵はここに籠って三の丸に展開した攻撃兵を楽に撃ち果たすことができたのでしょう。
そしてこの三角馬出に続く道は北側の細い土橋だけ。
ここを押さえておけば大島城は少ない兵でガッチリ守れるようになっていたのです。
さらに三角馬出と二の丸の間は木の橋で結ばれており、いざというとき橋を落としてしまえば、ここから先には進めなくなるようになっていました。
二の丸と本丸の間には巨大な谷が横たわっています。
ここにも橋が架かっていたと言われ、二の丸を占領されても橋を落とせば本丸は切り離され独立状態に。
攻撃兵たちは馬出や曲輪をひとつ占領してもさらにその先に同じような障害がまた出現するので、絶望的な気持ちになったのかもしれません。
そして大島城を落城させるには相当な被害が出ることを覚悟しなければならなかったのでしょう。
本丸は天竜川を望む絶壁の先端
本丸はだだっ広い平らな曲輪。もともとの大島城はこの部分だけでした。
静かにしていると川の音が聞こえます。
大島城のすぐ下を流れる天竜川。そこに飛び出た台地上に本丸を置いてあります。
川と崖によって台地が続く西側からしか攻めこむことができず、大島城がいかに守りに適した場所にあるのかがわかります。
本丸からの眺めは良く、南信濃の主要な城、飯田城もここから望むことができます。
本丸と二の丸の間の堀切を下りていくと井戸があります。
大島城は天竜川まで降りなくてもここで水を得ることができるようになっていました。
井戸は外からは見えないように隠されており、周囲は土塁によって囲まれています。
ここから見ると本丸は15mくらい上にあるのがわかると思います。
この高さが大島城の武器なのですね。
織田軍襲来!大島城は伊那を守れるか?
長篠の合戦、そして周辺国との断絶。
それまで敵を一切寄せ付けることがなかった武田領国に、織田・徳川軍が攻め込んでくるのは、時間の問題となってきました。
美濃から信濃に通じる木曽の谷は家臣の裏切りによって織田軍の手に落ち、残るは伊那の谷。
織田信長は息子信忠を大将に任じ、大軍を派遣します。
これに対し、武田勝頼は、伊那谷の防衛のため、高遠城に弟仁科守信、そして大島城に叔父武田信廉を加勢として入城させ、織田軍の侵攻に備えます。
このころの武田家臣団には昔日の結束はなく、勝頼が信じられるのは一族の武将だけとなっていました。
織田軍が伊那谷に侵攻すると、なんと大島城より南にあった武田方の城は戦わずして降伏。
まったく無傷の織田の大軍が大島城に迫ってくることになりました。
大島城の外曲輪に避難していた農民らがこの知らせを受けてまず逃亡。
そのとき周辺の建物に火をかけました。城兵が慌てて火を消しに行っている間に、何と城主信廉も逃亡。
統率を失った兵士たちは続いて逃げるしかありませんでした。
こうして堅固な防御力を持つ大島城は、その威力を全く発揮することなく落城してしまいます。
信玄が勝頼に遺した城も、兵や武将がいなければ守ることはできません。
もし大島城に武田信廉が残り織田軍との戦いが行われていたら、その後の高遠城の戦いなどの展開に少しは影響したのかもしれませんね。
大島城を接取した織田軍はそのまま北上し、武田一門の仁科盛信が守る高遠城を落城させたあと甲斐になだれ込みます。
武田勝頼は未完成だった新府城を焼き払い、再起をかけて東に落ちていきますが、天目山にて自刃。
こうして武田家は滅亡してしまうのです。
戦いに使われなかった大島城は織田家臣毛利秀頼が入城しますが、2か月後に起こった本能寺の変によって城は放棄されます。
その後大島城が使われた様子はなく、その跡を残して現在に至ります。