山梨県韮崎市。ここは甲府から西にしばらく離れた小さな町で、ちょっと郊外に出れば田んぼが広がるとても静かなところです。
この町で目立つのは七里岩と呼ばれる巨大な崖。
ゴツゴツの岩による地形がずっと続いているんですね。
七里岩は昔富士山より高かった八ヶ岳の頂上が噴火によって吹き飛び、その土砂を川の流れが削ってできたと言われています。
なかなか他では見られない地形ではないのでしょうか。
戦国時代の終わりごろ、この川に挟まれた細長い台地の上に巨大な城が造られました。その名を新府城と言います。
その名の通り、甲斐の新しい中心となるべくこの城は、戦国最強と呼ばれた武田家の最後の当主勝頼によって、最高の技術を用いて築かれました。
しかしその力は発揮されることなく、未完成のまま勝頼の手によって焼き払われてしまいます。
新府城が地上に姿を見せていたのはわずか68日。まさに幻の城なのです。
なぜ武田家最大の城、新府城は、完成を待つことなく焼き払われてしまったのでしょうか。
また、その後武田勝頼の運命はどのようになったのでしょうか。今回は幻の新府城と武田勝頼のその後を追ってみます。
武田勝頼は、三河長篠にて織田・徳川連合軍と戦い大敗してしまいます。
その後、越後上杉氏の後継者争いをきっかけにそれまで同盟していた相模の北条氏とも争うこととなり、周辺国は敵だらけとなってしまいました。
これでは戦国最強と呼ばれた武田軍でも領国の守りを固めざるを得ません。
一方勝頼と敵対していた織田信長は、大坂の本願寺を降して畿内を制圧。信長の次の狙いは、勝頼が治める甲斐・信濃に向けられるのです。
このような深刻な状況の中、勝頼は新府の地に新たな武田の本拠となる城を築き始めます。
織田・徳川、そして北条の軍がやがて甲斐に攻め込んでくることとなり、武田家が長く本拠としていた躑躅が崎館ではとても迎え撃つことができない!ということがはっきりしてきたのでしょう。
七里岩の断崖に守られた「新府城」であれば防御の心配は少なく、また織田・徳川軍の侵攻に対して素早く対応できる位置でもあります。
築城が開始されたのは1581年の2月といわれ、武田家滅亡のわずか1年前のことでした。
新府築城は、勝頼にとって生き残りのためのわずかな希望。しかし周辺の情勢はどんどん悪化していきます。
新府着工から1月後の3月22日。遠江の高天神城が徳川家康の攻撃を受けて落城。
周りに敵を抱える勝頼は、結局この城に援軍を送ることができませんでした。
「なんだ、武田に味方していても助けにきてはくれないのか。もう武田も終わりか。」領内に動揺が走り、駿河の武将の中には早くも織田・徳川に内通する動きを見せる者も出てきました。
4月には北条軍が都留郡に侵攻。それまでずっと戦いのなかった甲斐が戦場となりました。
9月には駿河長久保城が北条軍によって落城。こうして武田領は少しづつ敵の手によって侵略されていきます。
焦った勝頼は新府城の普請を急がせ、工事は昼も夜も続けられたと言います。
勝頼が武田の未来をかけて築かせた新府城とは、いったいどのような城だったのでしょうか。
徹底的な防御!武田家の新首都
新府城の西側は高さ100mを超える七里岩の断崖、東側には塩川の流れによる傾斜があり、東西から攻めこむことが難しい地形となっています。
城の南側はゆるく台地が下っており、こちら側から攻撃されても城方は高い有利な場所から守ることができます。
この南方向に城の正面大手が開かれていました。新府城の唯一の弱点は北側ですが、ここを堀などで断ち切ってしまえば攻めることは大変難しくなります。
城の北側には出城が造られていたといわれており(徳川家康によるものかもしれません)、徹底的な防御態勢が敷かれていました。
また城を囲むように武田家臣団の屋敷が計画され、まさに鉄壁の守りを持つ武田家の新首都がこの台地の上に造られようとしていたのです。
無料駐車場に車を停めて、まずは南側の大手口から見ていきましょう。
城内への最短ルートは神社の参道ですが、これは後年になって作られたものなので、今回は無視します。
ちなみにとても傾斜がキツくしかもまっすぐな階段が伸びており、ここを上ると見学前に相当体力を奪われます。
この傾斜をかわすジグザグ道が設けられているので、ゆっくり行きたい方はそちらをお勧めします。
城の南側、大手に向かうには、参道の先にある道を登っていきましょう。
しばらく登っていくと左側の景色が気持ちよくスッと開けます。
ここが新府城の正面入口大手です。
大手は桝形・馬出・三日月堀がセットになった新府城最大の見どころ。
キレイな景色が広がっていていろいろ気になりますが、まずは何も見ていないことにして下まで降りてみましょう。
城の南側から坂道を登っていくと、巨大な土の高まりが見えてきます。これが新府城の正面入口「大手馬出」です。
高さ・大きさともここから見上げるととんでもない迫力がありますね。
城に入るにはこの馬出の両側にあったであろう入口を目指して横移動していくことになります。
馬出の下に設けられた三日月型の堀はここを正面突破しようとする敵兵の動きを止めるものです。
この堀を乗り越えようと足元に気を取られているうちに、頭上から弓鉄砲による攻撃を食らってしまうというわけです。
なんとか攻撃をかわしながら馬出の端から城内への進入を試みますが、道はかなりの傾斜となっており攻撃側の勢いは削がれることに。
そしてその先に待ち構えるのが狭い入口で、もしかするとここには門が建てられる予定だったのかもしれません。
怖いのは、これまで通ってきたルートが、すべて馬出から丸見え!ということ。
攻撃側は常に城内から攻撃される道を通らなければ城に入れなかったのです。このあたりが城というものの怖さですね。
馬出は半円形の広い空間。ここは上から敵を攻撃する防御拠点であり、また反撃の際はいったん兵をまとめるスペースにもなります。
丸馬出とこの後に紹介する桝形のセットは武田家が築いた城に多く使われ、これまで蓄積された技術を新府城の重要な部分に使っていることがわかります。
馬出の先に広がるのが両袖桝形虎口。土塁によって囲まれた四角い空間に敵兵を閉じ込め、周りから攻撃する仕掛けです。
このあたりの木はバッサリ切られ、その様子がよくわかるようになっていていいですね。ほぼ正方形の桝形の一辺は約30mあり、おそらくここまで巨大なものはほとんどないと思います。
新府城が完成していれば複数の門を突破しなければならない構造となっていたはずで、寄せ手は相当な被害を覚悟しなければなりませんでした。
今は低くなってしまったであろう土塁と、建物が一切ない現状を見ても、この城の壮大さがわかります(ここには土塁の上に柵か塀があっただけで建物がまだなかったと考えられています)。
完成前とはいえここを訪れた多くの人は、新しい武田の本拠にふさわしい城の出現にさぞかし驚いたのでしょう。
弱点であった城の北側の防御はどのようになっていたのでしょうか。
新府城の北側には帯曲輪が設けられ、土塁と水堀が巡っていました。
水堀の幅は約7m、深さは2m以上もあり、その外には幅30mを超える湿地が広がっていました。
こんな山の上に水なんてあるのか!と思うのですが、現在でも水があるのが確認でき、周囲に水が湧く不思議な場所であることがわかります。
面白いのは出構(でがまえ)と呼ばれる細長い土塁のようなものが二本堀の中にのびていること。
きっと堀に飛び込んだ敵兵を側面からも攻撃できる陣地のようなものだと思います。このように北側も抜かりなく守りが固められていたのです。
一番西側の崖に近い部分は橋として残され、ここには新府城の裏口がありました。
大手と似たような桝形がありますが規模はほぼ半分くらいです。
ここにあった門は発掘調査によって燃えて倒壊したことがわかっているとのこと。やっぱり勝頼がこの城に火をかけて退去したのは本当のようですね。
新府城の中心部は四角い形をした本丸。なんとなく躑躅が崎館に似ているような気がします。
大手からここへは、もう一つの馬出を通って二の丸から入るようになっていました。
新府城の跡は草が生い茂っている場所が多く、馬出の様子はよくわかりませんでしたが、二の丸への入口はここだったのだろうという跡は見ることができました。
二の丸と本丸の間には兵を隠す場所が造られており、新府城が実戦を意識した城であったことがわかります。
現在新府城の本丸跡には神社が建っており、その裏に案内看板があります。
ここには勝頼の館が建てられ、池などの優雅な施設があったのでしょう。
本丸北側からは八ヶ岳を望むことができ、勝頼が在城中、ここに立って織田軍が攻めてくる信濃の方向を眺めることもあったのかもしれませんね。
絶好の妄想ポイントでもあります。
新府城の土塁や堀の普請は9月には終わり、巨大城郭の基礎となる部分が地上に姿を現しました。
後は塀や櫓が建てられれば城は完成となります。
さらに工事は続けられ、年内に御殿などは使うことができるようになりました。
12月24日、武田勝頼は代々の本拠であった甲府の躑躅が崎館から新府城に移ります。
きっと新府城は、櫓などはまだ無い、未完成の状態であったのでしょう。
工事が続く武田家の新しい居城が完成すれば、追い詰められていた武田家臣や領民の気持ちも上向きになっていくかもしれません。
武田家にとって新しい時代を開く出来事であったのでしょう。
しかし・・勝頼が新府城に入ったのと同じころ、織田信長は家臣に武田攻めの準備を始めるよう促していたのです。
翌1582年1月。武田領木曽を治めていた木曽義昌の謀反が発覚。
勝頼は討伐のため直ちに木曽に軍を進めます。
一方、義昌は織田に救援を要請。
これを受けて2月3日、ついに織田信長は武田討伐の命令を下します。
信長の命によって駿河からは徳川軍、飛騨と伊那谷から織田軍が武田領に侵攻。
また関東の北条軍も動き、木曽義昌に勝てなかった勝頼は、軍を引くしかありませんでした。
2月14日、浅間山が突如噴火。東の空を真っ赤に染める火柱は、もはや武田家が神から見放されたことを示しているように当時の人々に映ったのでしょう。
2月17日、伊那の拠点大島城が自落。信長の息子信忠率いる大軍が伊那谷を攻め上ります。
2月29日、武田一族であった駿河の穴山梅雪が徳川家康に降伏。南から徳川軍が甲斐に侵攻してくることが確実になりました。
3月2日、勝頼の弟仁科盛信が守る高遠城が信忠の攻撃を受け落城。この知らせはすぐに新府の勝頼のもとに届けられました。
まだ若い弟盛信が武田の意地を見せ割腹したこと。その一方で多くの武田一門が戦いから逃れ家を守る将も兵もいなくなっていること。
天下に名を馳せた武田家の崩壊が明らかになったこの日。勝頼は様々な思いを巡らせたのでしょう。そして新府城は最後の夜を迎えます。
翌3月3日、勝頼は未完成だった新府城からの退去を決定。新造されたばかりの御殿やまだ整わないわずかな櫓や門は武田兵によって火をかけられ、崩れ落ちていきました。
勝頼が入城してからわずか68日。新府城は地上から姿を消し幻の城となったのです。
わずかな兵を率いて東の山奥に当てのない行軍に向かった勝頼。
やがて郡内の小山田氏に行く手を遮られ、一行の進退は窮まることになります。
田野の地で屋敷を柵で囲み陣所としますが、そこを織田方の滝川一益に知られ取り囲まれます。
勝頼の周りにいたのは北条夫人と息子信勝、そして50人ほどの兵士だけ。
もはや逃れられないことを悟った勝頼一行はここで自害。
戦国の世に名を馳せた武田家の滅亡は勝頼が新府城を立ち去ってから8日後、3月11日のことでした。
武田勝頼一行が果てた地、田野。
ここに、のちに甲斐の領主となった徳川家康によって勝頼を弔う寺が建てられました。
景徳院と名付けられたその寺には、勝頼と夫人、信勝の墓が残っています。
現在みられる墓が建てられるのはのちの時代のこと。
江戸時代の文献によれば「勝頼一行の遺骸は主君も家臣も入り乱れた状態で、そのために同じ穴に葬った」ということが伝わっています。
その場所はどこかというと現在のお堂(甲将殿)がある場所。
勝頼の首は信長のもとに送られますが、きっと魂はここにあるのでしょう。
4月3日、織田信長は新府城の跡を訪れています。
その後甲府に入り、わずかな滞在の後、畿内に戻ります。
最大の敵を滅ぼした信長の頭の中には、天下統一に向けた次のプランが巡っていたのでしょう。
しかしそれから2か月、本能寺の変によって信長も地上から姿を消し、再び混乱の世が訪れるのです。