石垣が美しすぎる田丸城!城跡の奥にひっそり眠る織田信雄の石垣とは?

三重県にとても石垣が美しい城跡があるのをご存じですか?

使われている石自体がきれいで何だか家に一個持ち帰りたくなるような感じ・・。

その城の名は田丸城です。

田丸城は貴重な城郭遺構

田丸城は小さな丘を利用して築かれた城。丘の上に城の中心となる3つの曲輪を置き、その外側を囲む造り。そしてその様子が非常によく残っているます。

実は城の外堀まで残っているというのは非常に珍しいこと。

内堀は残っていることが多いのですが、外堀はたいてい埋め立てられてしまうもの。
田丸城は当時の城がどの様な姿をしていたのかがわかるとても貴重な遺構です。

見学は「玉城町役場駐車場」からがちょうどいい

田丸城見学のための駐車場は役場のところ、他に城跡に入ったところにあります。どちらも無料ですが、多少坂道を登るのでサッと見学するには城跡内部の駐車場がおすすめです。

私は外側から見学したかったので、役場の駐車場に停めました。

田丸城主「織田信雄」の話

【PR】

忍びの国 (新潮文庫) [ 和田 竜 ]

進んでいくと戦国武将のイラストが入った旗が。田丸城主織田信雄公です(織田信長の次男です。)。

信雄は織田家の伊勢支配の過程で北畠具教(きたばたけ とものり)の養嗣子(ようしし)となり、この城に入ります。そして田丸城を改修し、三層四階地下一階の天守を備えた当時最先端の城郭を出現させました。1575年のことと言われています。
これはちょうど長篠の合戦が行われた年。当時の信長の居城岐阜城は山上と山麓に重層の建物が並ぶ独特の造り。翌年には安土城の築城が開始されます。
伊勢支配の拠点、そして織田一門である信雄の居城田丸城。石垣の上にはさぞかし立派な天守があがったのでしょう。田丸城は織田家の力を知らしめる重要な役割を担っていたのです。

ところが田丸城は1580年に失火により天守が焼失。放火ともいわれています。これをきっかけに信雄は田丸城をから松ヶ島城に移ります。
その後田丸城は蒲生氏郷の支配下に入り、江戸時代には稲葉氏・藤堂氏、さらに紀州徳川家のものとなり、明治維新を迎えます。

ずっと長い間使われ続けた歴史ある城なのですね。

田丸城の見どころ!二ノ丸と本丸をつなぐ土橋

二ノ丸と本丸をつなぐ土橋。通れる部分はわずかな幅しかなく、攻撃側は大軍であってもここで足止めを喰らうことになります。下をのぞくと先ほど登ってきた入口が見えますが、かなりの高さがありますね。落ちたら無事では済まなそうです。反対側は堀となっており、本丸側の石垣の上には櫓があったと言われています。ここではその櫓からの攻撃を喰らってしまうわけですね。


この土橋部分は田丸城防御の工夫が沢山盛り込まれたところ。もし無事に土橋を渡ることができても本丸石垣の間には門がありました。

左側の石垣が出っ張っているのがわかるでしょうか。これが田丸城の防御ポイント。門の前に集まった攻撃兵に対し、防御側は横からも攻撃できるようになっているのです。この石垣の上には塀が建っており、間に空けられた狭間から弓鉄砲が撃てるようになっていました。

攻撃兵の側面、しかも高い場所というとても嫌なところにしっかりスペースをとっているのがすごいですね。

天守台の石垣がちょうど良いごつごつ感!で嬉しい

本丸はだだっ広い空間。正面似見えるのが天守台です。

私が訪問したときは、ライトアップのイベントのためでしょうか、簡易的な櫓がありました。


もちろん当時の大きさとは全然違います。この櫓は天守台の穴倉部分に建てられています。いわゆる地下一階ですね。ここから建物の内部にあった階段を登って天守にはいったのです。


天守の一階は外側の石垣部分までありました。現在はそこをぐるっと歩くことができますが、眺めがとてもいいですね!

天守は三層で地上部分は4階建てだったと考えられています。一階部分でこの眺めなので、上の階からはもっと遠くまで見えたのでしょう。

天守台の石垣は心地よいゴツゴツ感。自然の石をそのまま積みあげた隙間の多い造りをしています。

なんだか石の一つ一つに個性がありまして、赤だったり黄色ぽかったり。どうやらこの地域でとれる石の特徴のようです。なんとなく静岡県の浜松城の石垣と似ていますね。

積みかたもあるかもしれませんが、石そのものを楽しめる石垣と言えそうです。

田丸城の石垣がいちばん美しい本丸西側へ!

田丸城には石垣がとても美しく見れる場所があります。それは本丸の西側です。こちらは城の裏手にあたるのですが、大手方向とは違ってグッと丘が盛り上がっているので、高い石垣が何段にもわたって積まれています。

大分修復されているとは思いますが、石の一つ一つが声を発しているような気がして・・。是非足を運んでみてください。

メインルートの石垣も見逃せません!

本丸への入口はもう一つあります。こちらの方がメインルートです。

三の丸のあった中学校から直接本丸下まで行けるのですが、道は何度も折れ曲がり簡単には近づけないようになっています。

見学路整備のために発掘調査が行われ、江戸時代にはこのような姿になっていたことがわかったとのことです。門の跡も発見されたのですが、中には江戸時代の図には見られないものもあり、いつの時代のものか謎は深まります。

この折り重なる石垣は近くの松坂城の跡に勝るとも劣らない姿ですね。

私が一番興味をもったのが「北の丸」

本丸の北側にあるのが北の丸。現在森に囲まれた中に稲荷神社があります。曲輪の端が盛り上がっており、あれはきっと土塁の跡でしょう。縄張り図を見てみると北の丸はなんだか独立したつくり。本丸に近づこうとする敵兵をここから挟み撃ちすることができそうです。

北の丸は標高約50mと本丸よりやや高く(本丸47m)、むしろこちらが城の中心であってもいいのかななんて思えます。


本丸との間には堀があります。また大手に当たる東側部分には石垣が積まれています。北の丸の入口部分の石垣はなかなかの雰囲気がありすが、平成になって積まれたもの。土塁や他の石垣が崩れないようにしてあるんですね。

これがきっと「信雄の石垣」だ!

石垣がとても美しい田丸城。最後にこの城でいちばん古いと言われている石垣を紹介しましょう。

それは北の丸の北東部にあります。

古いと言われる理由は石垣の角の部分のつくり。使われる石の大きさがバラバラで算木積が未発達ということです。

たしかに他の部分の石垣と様子が違いますし、膨らんで崩れかけているようにも見えます。ですが今日までその姿を留めているのはすごいことですね。

田丸城の石垣のほとんどが関ヶ原の戦いの前後に積まれたものということ。それより古い算木積未発達のこの石垣はいったい誰によってつくられたのでしょうか。

この石垣を築くことができた人物。それは織田信雄だと考えられています。


信雄はこのような姿をした石垣を田丸城のあちこちに造り、その上に巨大な建物を載せていったのです。
田丸城はそれまでになかった最先端の姿によって、織田家による伊勢支配の拠点としての役割を果たしていたのですね。

【PR】意外な伊勢の名物といえば・・

伊勢うどん4食入 メール便送料無料 ご当地 うどん 本場伊勢よりお届け 本醸造たまり醤油使用の特製つゆ付 ランキング 通販 伊勢うどんたれ NP